■ 旧村の「上庄原・下庄原」がわかっていないと、かなり混乱します。現在の「上庄原・荘原」も登場するので、違いに留意してください。
石塚尊俊著『出雲国神社史の研究』にある、〔『雲陽誌』に見る勧請神社の研究〕の一部です。
このように、出雲市斐川町荘原鎮座の佐支多神社は、『出雲国風土記』(以下『風土記』)所載の「佐支多社」とされています。しかし、実質は『風土記』に登場しない建御名方命を祀る諏訪神社ですから、「佐支多社→諏訪神社→佐支多神社(実は諏訪神社)」という変遷を書いてみました。
「上庄原」の諏訪明神 「古文献では、佐支多神社をどのように書いているのか」とネットで探すと、『国立国会図書館デジタルコレクション』に、享保2年(1717)編纂の『雲陽誌』があります。〔巻之八〕から、〔出雲郡〕[上庄原]を転載しました。
諏訪明神 健御名方命なり、本社二間四面、拝殿も二間四方、天文年中に新建の棟札あり、祭祀正月十七日田植の神事、七月廿七日九月九日獅々舞あり、
稲荷明神 (略)
荘厳寺 禅宗醫養山と号す、本尊薬師如来坐像長一尺七寸行基の彫刻、(後略)
この「諏訪明神」が現在の佐支多神社で間違いないのですが、「荘原・上庄原」がよくわかっていない余所者(よそもの※私のこと)では不安が残ります。自分なりの確証が欲しいと「荘厳寺」を探せば、佐支多神社の南にありました。また「稲荷明神」を今の御射山稲荷神社とすれば、正(まさ)しく佐支多神社であると納得しました。
これで、『出雲国神社史の研究』の「上庄原の諏訪明神」が『雲陽誌』の表記であるとわかりました。
前出の「御射山(さん)」については白紙の方が多いと思われるので、同書の〔上庄原の諏訪明神〕から一部を転載しました。
やや説明不足なので、諏訪神社の総本社である諏訪大社上社・諏訪大社下社ともに重要な摂社「御射山社」が付帯している、と補足してみました。
『地理院地図(電子国土Web)』に、神社名などを附記したものを用意しました。
まずは、佐支多神社の南に、前出の御射山が字(あざ)としてあるのを確認してください。
これまでに挙げた序章(予備知識)から、御射山社は、諏訪神社があって初めて成立する神社とわかります。言い替えると、御射山社は単独では存在しないので、近くに諏訪神社があることが必定となります。それが、地図の下部に鎮座する諏訪神社です。
ただの「諏訪神社」ではわからないので、神庭(かんば)諏訪神社と固有名を附けて写真も添えました。
ここまでの流れで、佐支多神社は、同じ諏訪社でも「御射山社」としたほうが馴染むように思えます。
佐支多神社の社殿は、神庭諏訪神社の方向を向いています。旧上庄原村にはそっぽを向いた格好ですから、村の鎮守社と言うよりもっと広域の存在、つまり神庭村の諏訪神社と一体のものとすることができます。
神庭諏訪神社は、社頭の『由緒』から、かつては神庭谷の奥にあり(本宮)、350年前に現在地へ遷座したことがわかっています。その鎮座地には法則があると睨み、本宮・神庭諏訪神社・佐支多神社をGoogleマイマップ上に表示してみました。
予想通り一つのライン上に並びますから、神庭諏訪神社は、本宮(もとみや)と佐支多神社を結ぶ線上に造営したと考えるのが合理的です。
これは、「諏訪神社(現諏訪大社)−御射山社」の出雲版が、この地に「本宮(神庭諏訪神社)−佐支多神社」として造営されたことを意味します。
参考として、仁多郡奥出雲町三成に鎮座する諏訪神社の案内板を挙げました。
『雲陽誌』から〔下庄原村〕の一部を転載しました。
普賢寺 禅済家(臨済宗?)三佐山と号す、本尊普賢菩薩坐像長一尺一寸運慶の作、開山分明ならず、境内河伯池(かわくのいけ)というあり、小僧淵という所もあり、昔当寺の小僧を河伯という水獣とりたるとて土人此池の名とす、
諏訪明神は“見当たりません”が、「御射山」に通ずる「三佐山(みさやま)」の山号がある普賢寺に注目しました。諏訪大社「上社」の本地仏が普賢菩薩ということもあり、下庄原村にも諏訪神社(三佐山社・御射山社)があった可能性が窺えます。
現在は廃川となった「新川」が“川”として載っている、昭和9年当時の五万分一地形図分を用意しました。「御射山」ではなく「岡」とあるのが不思議ですが、左半分に、冒頭に挙げた上庄原村に関係する寺社を書き入れました。
これを眺めると、「庄原」の下(南)に学頭諏訪神社があります。こうなると、上庄原と同じように、その諏訪神社に対応する御射山社が下庄原にも存在した可能性が色濃くなってきます。
「松平乗命旧蔵本」とある正保2年(1645)の古図を見ると、この時代では一村の「庄原村」であることがわかります。
その後に「上・下」と分村したことになりますが、その詳細は不明です。
大正15年刊行の、後藤蔵四郎著『出雲国風土記考証』から〔佐支多社〕を抜粋しました。
『雲陽誌』では「上庄原」ですが、ここでは「佐支多神社は下庄原」です。「上」の誤植としましたが、出雲の古絵図を眺めていたら下庄原村で間違いないことに気が付きました。
文化年間(1804-1813)編纂とある、新川がまだ開削されていない時代の古図です。これを眺めると、◯内が現在の小字「御射山」に相当しますから、佐支多神社が下庄原村に鎮座しているのは間違いないことになりました。
一例だけでは心許ないので、天保年間(1830-1844)とある古図も用意しました。『雲陽誌』は享保2年(1717)編纂ですから、約120年後のものとなります。
これも、佐支多神社は同じ下庄原村地籍になっています。
試しに現在の字界を調べたら、「上庄原村・下庄原村」が「上庄原・荘原」として今でも変わっていないことが確認できました。
改めて佐支多神社の正式な住所を『島根県神社庁』で調べれば、出雲市斐川町大字荘原町587番地ですから、昔から下庄原に鎮座していたことになります。
これで、『雲陽誌』[上庄原]記載の諏訪明神(佐支多神社)を抹消し、[下上庄原]に編入ということになります。「これで本稿を大幅に書き直しか」と恐怖に駆られましたが、これ以降は、分村前の「庄原村」とすることで回避しました。
前出の五万分一地形図で指摘した「学頭諏訪神社」から、その普賢寺の場所を突き止めれば御射山社の消息がわかるかもしれないと考えました。しかし、ネットの情報ではその片鱗さえも見つけることができません。御射山社が早い時点で消滅した関係で、普賢寺も『雲陽誌』記載以後に廃寺の道をたどったとするしか説明ができなくなりました。
改めてその地形図を眺めると、右上に学頭諏訪神社に対応できそうな寺・社の凡例があります。現在の地図には載っていないのでストリートビューで歩いてみると、墓地はありますが建造物としての寺社は確認できません。
しかし、御射山社に関連するものが昭和初期には存在していたとし、「(御射山社)」と「(普賢寺)」を書き入れたのが下図です。
この配置を見れば、御射山社としての推定地はともかく、学頭諏訪神社に御射山社が付属していたことを完全否定することはできないと思います。
ここまで、「三佐山は御射山に通じる→御射山社があった」という自説を展開してきました。これをまとめると、庄原村と神庭村・学頭村には
御射山社−神庭諏訪神社(上社※1)
御射山社−学頭諏訪神社(下社※2)
の二社があったとなります。
江戸時代では三村に展開している「諏訪神社−御射山社」ですが、中世ではもっと広域の、言わば一つの領地に「上諏訪神社・下諏訪神社」の二社を造営したと考えることができます。
その後は造営者(領主)も替わり、分村によって村境を越える配置となればその造営様式も忘れられ、御射山社や別当寺が廃絶の道をたどったとすれば、現在の状況をうまく説明できます。
よって、諏訪大社が鎮座する地からは越県行為になりますが、「旧庄原村には、御射山社を伴う諏訪神社が上社・下社ともに造営された」と物申してみました。
以前、昭和23年に撮影した荘原周辺の航空写真を見て、「何だ、これは」と疑問を持ちました。
初めは河川と思いましたが、拡大すると、帯の内側には小路や人家がありますが、中央部が更地のように空白となっています。
「ナスカの地上絵をも凌(しの)ぐものが戦後間もない出雲にあった」としましたが、知らないのは私だけという可能性もあるので、騒ぎ立てることなくお蔵入りになりました。
長らく「不思議」で済ませてきましたが、本稿を書く中で解決しました。そのきっかけは「斐伊(ひい)川は、江戸時代の付け替え工事て西から東へ向きを変えた」のを知ったことでした。その経緯を知ろうと「斐伊川 東進」で検索する中で見つけたblog『神名火だより』に、明解な答えがありました。〔素盞鳴尊の大蛇退治と斐伊川治水〕から、[江戸時代の宍道湖]の一部を転載しました。
川としての使命を終えたので、河川敷に農地や住宅が進出を始めた頃のものとわかりました。この川の改修または氾濫で、下庄原の御射山社と普賢寺は、移転や合併または廃絶して地図から消えたことが考えられます。
ネットの情報で、『荘原歴史物語』と『郷土斐川物語』が刊行されていることを知りました。両書には、ここに書かれている以上のことが載っているはずです。いつかは閲覧してみたいものです。