木祖村小木曽(おぎそ)にある「諏訪神社」に限りませんが、全国に広がる諏訪神社は、いずれも「諏訪神社・諏訪社」を称しています。固有の「◯◯諏訪神社」ではないので、「何という名前にしようか」と悩むのが通例です。そこで、これも通例となった「字(あざな)」を頭に付け「小木曽 諏訪神社」としました。
中山道奈良井宿から、鳥居峠までは歩いたことがあります。しかし、その先の薮原へは、国道19号での往復はあっても「ここを曲がれば…」で過ごしてきました。雪が残る1月中旬、中央道岡谷ジャンクションで名古屋方面へ行ってしまうという新春初ヘマに出鼻をくじかれましたが、その後は順調に木曽路をたどり、人生50年で初の薮原入りを果たしました。
小木曽諏訪神社が鎮座する里は雪で覆われていました。子供の頃と違い、カレンダーの切り替えだけとなってしまった正月ですが、それでも終わってしまったという寂しさはあります。そんな目で見るからでしょうか。諏訪神社はひっそりと静まりかえっていました。
最近見ることが少なくなった木造の赤い鳥居が出迎えです。朱に艶がありますからまだ建ててから間もないようです。恒久化を目論んだ石造りと違い、「木曽ならでは」ということになるのでしょうか。決して大きいとは言えませんが、太い柱を“惜しげもなく”使った堂々たる鳥居は、神社巡りを常としている私でも見たことがありません。
拝殿前に立つと、屋根から延びたツララの先から、透明な身に変えた雪がしきりに落ちています。こんな光景を見るのは久しぶりのような気がしました。
各地の諏訪神社を訪れるときに必ず確認するのが神紋の梶です。拝殿や覆屋を見渡しますが、よくある鬼板にもその紋がありません。拝殿の軒下左右に、初詣用に飾られてそのまま放置されたかのような提灯が下がっています。確率的にはかなり高い大提灯ですが、それにも描かれていません。ようやく見つけたのが、正面の梁に浅く彫られた梶の一葉でした。
すでにその存在を知っているからいいようなものの、知らずに見上げたらギョッとするのが「ヘビ」です。諏訪神の正体(躰)がヘビというのは知られていますが、神社の正面にその姿を見るのは初めてです。しかし、神体のヘビを表に出すことはありませんから、奉納品の一種と見た方が自然です。首と尾が長いからキジ(もしかして鳳凰)でしょうか。左右の梁に留まっています。この地にある言い伝えを象徴しているでしょうか。
近くから・遠くから・真下からと見比べました。その際だった存在感の要因は素材によるものでした。意外性に驚いた松笠が見事に蛇身のウロコを表現しています。開いた口からのぞく紙片の舌に一層の不気味さを感じてしまいました。この飾りの伝統がどこまで溯られるのか分かりませんが、作者の腕と材料を選ぶ目に感心しました。神社よりこの飾りを紹介することに多くの字数を割いてしまいましたが、最後にその全身を鑑賞してください。
「ヘビと神社の関係がわかるかもしれない」と、道中にある郷土館へ寄ってみましたが冬季休館中でした。
ヘビばかりでは祭神に申し訳ない、と6月に再び寄って見ました。小木曽諏訪神社は、雪の代わりに初夏のセミの声に包まれていました。
拝殿のガラスを通して本殿の前面を撮ることができました。幣帛が3本あります。主祭神は建御名方命で間違いありませんが、脇に合祀されている祭神がわかりません。
境内に、「宮司の嗣子が祢宜の資格取得を機に、取苗大明神の伝説を後世に伝えようと…」とある『取苗大明神伝説の地』の碑があります。
前回は、寒さの余り無視した境内入口にある『社殿大鳥居増改築之碑』も読んでみました。
「お宝鑑定団」のように、何回も「1・10・100…」と数えてしまいました。うらやましいと言うか妬ましいと言うか、氏子の負担金なしで…。これも諏訪明神のお陰でしょう。これで、今の時代では超贅沢とも言える木造の鳥居で建て替えられた理由がわかりました。
最近“恒例”となった灯籠のチェックです。余りの白さに「これは明治以降」と思いました。しかし、デザインが古式です。確認すると、拝殿前が「文政」・境内社が「天明」、上写真の鳥居右前がいちばん古く「安永三年(1774)」でした。木曽川から良質の花崗岩が手に入った、と考えました。
帰りに寄った木祖村公民館の図書室で、木祖村教育委員会『木祖村の文化財巡り』を見つけました。