地図に表示した「大篠津(おおしのづ)」を見ると、地形が複雑なので島根なのか鳥取なのかピンときません。どちらの県であっても直接の損得はありませんが、かつて、「美保関隕石」を見ての帰りに大篠津の諏訪神社をかすめて通っていたことがわかりました。当時は「諏訪神社を訪ねる」旅など全く意識の外でしたから、再び国道431号の世話になるとは思ってもいませんでした。
日本海に面した雲津諏訪神社から、「境水道大橋」で、最近まで川と思い込んでいた県境の水道(海)を渡りました。この橋の構造というか通過方法に当時の記憶が思い起こされる中で、カーナビの指示通りに神社の前に着きました。
「海に近いから」というのは理由になりませんが、同じ平地でも明るく開け、玉垣・鳥居・拝殿が整然と見通せます。神社前の由緒書を読んで、現在地へ移転してまだ歴史が浅いことが、その理由の一つと納得しました。
一通り写真を撮り終えて拝殿前に戻ると、近所の女性でしょうか、拝殿内へ上がり込み掃除を始めました。これはチャンス、とお願いして拝殿内を撮影させてもらいました。幾つか質問をする中で、「宮司を呼びましょうか」と言います。丁重に断ったのですが、姿を消してしばらくすると宮司同伴で現れました。気軽に請け負う姿とそのタイミングから、宮司の自宅が境内にあり、両人が宮司夫妻であることがわかりました。今までの諏訪神社は全て宮司が不在(無住)でしたから,この神社の格式の高さがうかがえました。
質問の内容と私が諏訪から来たことを知って、諏訪大社へ参拝したことがあるなどと、話に弾みがつきました。所は変わっても諏訪神社の宮司です。「御柱」や「茅野市」などの言葉も出ました。
許可を得て「松の写真」をカメラに収めました。しかし、下から煽って撮ったので台形に写っています。強制的に修正したので歪んでいると思いますが、大きな松であることはわかります。以下は、隣に掛かっている額の説明文です。
「皮の行李写真」も同様に修正してあります。幾らか映り込みがありますが上出来でしょう。
以下は、『氏神・諏訪神社由来書』から〔創建の由来〕と〔神社の移転〕を転載したものです。
宮司が計3回も自宅(社務所)の間を往復して、『氏神 諏訪神社 由来書』『創建三百六十年 奉祝記念祭のご案内』『盛大に遷宮祝う(新聞記事のコピー)』、さらに〔諏訪神社守護〕〔諏訪神社 無病息災・交通安全守護〕の御札まで頂いてしまいました。篤く礼を言ったのはもちろんですが、財布を持ち合わせていなかったので、お賽銭を上げることができませんでした。
参道左に、火袋は新しいのですが、その他は文政8年(1825)という「諏訪大明神」と彫られた灯籠があります。「諏訪の大松」に写っているものと同一のものでしょう。これと鳥居が、唯一、写真で見ることができる当時を偲ばせる大篠津諏訪神社でした。
再び「由来書」ですが、「通称は、すわさん・うじがみさん」と書いてあります。通称でないと地元では通じないことがあって、他所では「諏訪神社」を繰り返しても首を傾げるだけで、ようやく「おすわさんのことですか」と返ってきたこともありました。