「県社」 あるサイトに、「日本全国には沢山の諏訪神社があります」として、そのリストが載っていました。「南信」といっても長野県人でないと「なんぞや」になってしまいますが、長野県(信州)南部のことです。その「南信版」を、余りの多さに眼をしばたたかせながらチェックしていたら、旧社格「県(あがた)社」を見つけました。南箕輪(みのわ)村の田畑神社です。
初見の名前に、まず取っ掛かりを、とネットで検索してみました。旧社格とはいえ県社です。しかし、その格式の割りには寂しい結果で、神社そのものの記述は全くありませんでした。前述のサイトには「上伊那郡南箕輪村字前宮原7023」と番地まで附記してありましたから、「諏訪より一足早い伊那の春を」とまず行動を起こすことにしました。
「南箕輪村役場」の標識を見て、「周辺案内地図でもあれば」と寄ってみました。地図はありませんが、同じ敷地に図書館があるのを見つけました。言うならば地区の情報センターです。神社の場所を聞くだけではもったいないので、まず郷土関係の棚に向かいました。
資料の出処を併記するのがルールですが、結局メモすることを忘れた『伊那谷の○○』で、田畑神社の情報を幾つか得ました。「昭和23年、村社・神明宮を村社・諏訪神社に合祀して田畑神社となる。諏訪社はもと前宮明神。伝えでは大山田神社穂屋の遙拝所」とあります。しかし、「県社」の記述は全くありませんでした。
住所はわかっていても、異邦人では見当も付きません。図書館の職員に住宅地図にある神社を指し示してもらいました。
駐車場が見当たらないので、境内へ向かうと思われる狭い道に乗り入れました。余りの急坂にフロントの視界が正面社殿の屋根のみという怖さでした。
覆屋の窓が閉められているために、中にある本殿の様子は全くわかりませんでした(後の調べでは「一間社流造」)。
こうなると、興味は古灯籠に移ります。「これは古い!!」というものではありませんが、前述の本で「宝暦12年(1762)」と紹介していたので探してみました。
拝殿の左奥に、その献灯の対象となる「天満堂」がありました。その社前に左右揃っている灯籠の竿は、和ロウソクにも似た独特の形です。左側は火袋が新しくなっていました。写真を撮るなら右側、と近づくと、こちらもわずかな色の違いからオリジナルでないことに気が付きました。灯籠で真っ先に壊れるのが火袋なので、致し方ありません。
拝殿から一段下の境内右に舞台(神楽殿)があります。後の調べですが、「例祭は4月26日。枠に張った紙を刳り抜いた『神楽の花』の下で、神主が御神楽を舞って奉納する」とありました。
舞台に上がり上を仰ぎました。天井というか屋根裏は茅か藁葺きで、梁や桟に縄で固定されています。外観のトタン葺きからは想像もしなかった造りに、伊那谷の歴史と風土を想いました。この下で、古くは神楽、新しくは青年団などの踊りや芝居が奉納されたのでしょう。
神社名が替わった中で、旧諏訪社の痕跡を探すのは面白いものがあります。唯一、諏訪社系を感じさせるのは蔵の紋「諏訪梶」だけと思っていましたが、改めて鳥居の前に廻ると、手水鉢に「前宮神社」と彫られているのを見つけました。旧社名が残っていたことになりますが、諏訪大社上社「前宮」を模したものなのかはわかりません。
これまでの桜咲く春真っただ中の伊那路は期待通りでしたが、それはあくまで二次的なものです。日陰に置かれた灰色の冷たい石の方に、はるかに満足できるものがありました。
その後、田畑神社の「県社」は誤記とわかりました。それに振り回された私ですが、「山」と同じです。社格の高さだけに興味を向けるのは「よろしくない」と戒めました。
郷土出版社刊『長野県町村誌』の「南箕輪村」から田畑神社(前宮大神)を転載しました。
同書の〔西箕輪村〕では、大山田神社と伝わる【御射山大社跡】の記述に「神田神畑有りて御供米或は神馬の料に献ぜし地を田畑村と号す」とあります。これが田畑村の由来でしょうか。
また、神社の名称は「前宮神社→諏訪神社→(旧村名をとった)田畑神社」という変遷とわかりました。