神社の名前をどう付けたらよいのか迷いました。始めは「大和」としましたが、旧大和村には他にも諏訪神社があります。そこで、由緒ある地名でもある「初鹿野」を冠して「初鹿野諏訪神社」としました。
諏訪神社は、国道から甲斐大和駅へ向かう上り坂の一段下という場所にありました。その案内板「諏訪神社」には、教育委員会の名で以下のように書いてあります。
これを読んでから、やや頭でっかちにも見える鳥居の前に立つと、トラロープが張られ「あぶないからはいってはいけません」と札が付いています。下調べで得た「朴の木の祟り」と案内板の「この神木を…」が意味深に重なりますが、構わずポールの間から入りました。
拝礼を済ませてから本殿を仰ぐと、…これは凄いとしか言いようがありません。「県指定の文化財」ということもありますが、それより彫刻の内容が尋常ではありません。
「一間社、千鳥破風つき入母屋造、向拝は軒唐破風つき」とある本殿は、瑞垣があるので、その全容を一枚の写真では紹介できません。また、どこから撮っても鉄骨が目障りとなりますが、本殿を保護する仕事を忠実に果たしているだけですから文句は言えません。
身舎(もや)は、中国を題材とした「七賢人」や動物とあります。深い彫り込みなのでその立体感に圧倒されますが、私には、…ややゴテゴテ感も。床下も斗栱(ときょう)が複雑に組まれ、隙間もありません。
興味のある人は案内板と見比べながら「あれがこうで、これがあれ」と見飽きないでしょうが、私は専門用語を見るだけで目がチカチカしますから、ただ口を開けて眺めるだけです。
そんな中でも印象に残ったのが、唐破風に吊り下がったコウモリにも似た鳥です。
案内板では、「兎毛通し(うのけどおし)には怪鳥を懸け」が相当しますが、翼を広げた姿は洋風で、オカルト映画に登場する悪魔の化身を連想してしまいました。
いつもなら社殿を一回りするのですが、神木との距離を保つために、背後の彫刻は斜めに見るだけに留めました。というのも、ネットによる事前の調べで“多くの事例を学んでおり”、「万が一が今回の参拝になっては」と危惧したからです。
祟りなどは信じない私ですが、心情として「神社前の酒屋で一合瓶を求め持参の紙コップに注いで拝殿に供えた」との私事はともかく、帰りの運転は、しばらくの間はかなり慎重になっていました。
ここで、冒頭に書いた「トラロープ」は“何だったのか”という話になります。一見したところ境内には危険なものは見当たりませんから、その時は「この神木云々」は参拝者への配慮かと思ってしまいました。
ところが、自宅で写真を整理をする中で、ネットで見た「随身門」が存在していないことに気が付きました。
左下がその礎石とわかれば、境内の奥に砂や木材などの資材が置いてあったことから、(残念ながら)祟りではなく、随身門の修復工事による「立入禁止」のロープと理解できました。
以下が、後日('17.11.10)撮った随身門がある諏訪神社です。
彫刻について、少し書いてみました。
現地では「魚のようなモノを咥えている」と見たのですが、左方からの写真では鬼面が写っていました。これで「怪魚を咥えた怪鳥」となりましたが、複雑に絡み合っており、拡大してもよく説明できません。
次は、「最上部の竜は針金の髭が残っておりリアルさを増しています」などと説明するより、写真を見てもらった方が確実でしょうか。
まずは、「本殿から四方八方を威嚇している怪獣怪鳥」とした4種類の動物が何であるかが気になります。
撮っておいた案内板を読むと「木鼻を亀頭および瑞鳥頭とする」が相当します。しかし、下部に見えるニワトリがなぜここにいるのか理解できません。
辞書では、「瑞鳥(ずいちょう)」を「めでたいことが起こる前兆とされる鳥。鶴・鳳凰など」としています。しかし、この諏訪神社の彫刻にはしっくりしないので、「瑞獣(ずいじゅう)」を参照しました。
これに当てはめると、下から、耳があったのか思い出せない「亀」・これもニワトリに見える「鳳凰」・最上部が「龍」となります。上から二番目は鯱にも見えますが、別写真では角が一本確認できたので一角の狛犬としました。
残るは麒麟ですが、少し悩んでから閃きました。そうです。「麒麟麦酒(ビール)」です。ラベルに似たような絵がありました。そう見ると最左端は麒麟の横顔そのものでした。それらをまとめると、早い話が『太王四神記』でした。
案内板に「木鼻を瑞鳥・瑞獣とする」と書いてあれば少しは理解が早かったと思いますが、限られた字数では省略するしかなかったのでしょう。
初鹿野諏訪神社では、“避けては通れない”のが「神木の祟り」です。地元では有名らしいのですが、私はネットで初めて知りました。その、線路の架線に枝が伸びても、祟りを恐れて伐ることができないという「朴」は、本殿の真後ろにあります。
注連縄が掛けられた親木(おやき)は完全に枯れていますが、根元からヒコバエが二本ほど伸びています。太い方は径20cmほどでしょうか。「おろそかにしなければ何も起こらない」ということなので ここに、いつものように写真を載せました。
諏訪神社の正式名称を確認するために山梨県神社庁のサイトを開くと、旧大和村には氷川神社・三島神社・諏訪神社の三社があります。その諏訪神社の住所が「初鹿野」ではなく「日影」であることに疑問を持つ中で、近接したコード番号に「二つの空き」があることに気が付きました。
2126 | 諏訪神社 | 甲州市勝沼町等々力一五七一 |
2127 | ─── | ───────── |
2128 | 氷川神社 | 甲州市大和町田野六〇五 |
2129 | 三島神社 | 甲州市大和町初鹿野一四五二 |
2130 | ─── | ───────── |
2131 | 諏訪神社 | 甲州市大和町日影一〇七九 |
これは、神社庁が設定した「神社庁番号」に法人登録の申請がなかったのか、または、ある時期に取り下げられたことが考えられます。
2130番に該当する「諏訪神社/甲州市大和町初鹿野」が“ある事情”で登録を抹消したとすれば、それは「祟り」でしょうか。現在は宮司や氏子の手からも離れているかもしれないと、ヨソ者の目からは勝手な想像が膨らんでしまいます。
ネット上では神木の話が余りにも姦(かしま)しいで、「私も!!」と書いてしまいました。
旧大和村教育委員会は、“公式見解”として「神木の祟り」を肯定しています。その祟りですが、神木を「日本武尊の分身」とすれば、「彼の怒り」と言い換えることができます。
私は、神木の前に諏訪神社を建て、日本武尊を日陰の神にしてしまったのが“諸祟りの根源”ではないかと考えてみました。
日照権は神様にもありますから、「その主張を、単なる『祟り』としか捉えないところに人間の傲慢さがある」ということになります。また、本殿の彫刻も、いくら瑞獣といっても24時間365日も睨まれるとやはり目障りになります。そのルーツは中国ですから、“日本”武尊としては目の前の彫刻の存在も面白くないでしょう。やはり、諏訪神社の存在自体が「障(さわ)る」大元なのかもしれません。
「1868年に県下の神社・寺院から提出された由緒書を翻刻したもの」とある山梨県立図書館編『甲斐国社記・寺記』から転載しました。「因」が抜けているので意味不明になっていますが、全文を読むと「従者が足を痛めたので、この地にとどまった」ことがわかります。
ここでは「朴の木は建御名方命が植えた・神木は杉」となっていますから、大和村教委に異を唱えることになります。ここまで、公式案内板「日本武尊が杖にした朴が育った」に沿った話を進めてきましたから、…慌てました。
左は、諏訪神社の境内にある
根周囲11.5m
樹高31.8m
樹齢371年
という「初鹿野の大杉(根株)」です。
『甲斐国社記・寺記』に出る「神木」がこの杉とすれば、案内板に「枯れた原因は蒸気機関車の煤煙と振動」とあるので、祟りを受けた国鉄(現JR)との“因果関係”がハッキリします。ここで県立図書館の肩を持てば、境内にある「初鹿野の大杉が祟りの根源」としたほうが合理的ということになります。
ただし、(そうだとしても)朴の木をおろそかにして神罰を受けても、当サイトでは一切関知しません。
いずれにしても、「神木の祟り」は中央線が電化した以降の“新しい話”なので、たまたまタイミングが合った事故に尾ヒレが付いて広まったのは間違いありません。「よくある話です」とまとめましたが、祟られないように酒を供えた私が(図らずも)“小心者”であることを証明する結果となってしまいました。
諏訪神社の別称「日向宮」は、対岸の「旧日影村の諏訪神社」と対比できそうです。諏訪大社「上社と下社」の関係でしょうか。