諏訪大社の重要な摂社である御射山社は「御射山」に鎮座しています。ところが、現在でも地元で慣れ親しんでいる「原山」の呼称が古くから知られていたのか、各地に御射山明神を勧請した神社に「原山神社」の名が見られます。もちろん御射山社ですから、「例祭日8月27日(旧暦7月27日)・ウナギ(ドジョウ)の放流」などが一致します。
その最たる例は、山梨県韮崎市の「青木原山神社」でしょうか。諏訪の御射山社の方向を背にした本殿があり、例祭日も同じです。さらに「穂屋野の三光」の言い伝えもあります。
青木原山神社の参拝を済ませれば、次は旧高根町にある「原山神社」に目が向きます。「北杜市の諏訪神社巡り」のコースに加えました。
須玉町の「若神子諏訪神社」の北に、「S」を限界まで押しつぶしたようなヘアピンカーブがあります。等高線がないカーナビでは想像もできませんでしたが、台地上へ一気に登る急坂でした。
地図の縮尺で表現が変わりそうですが、私には、八ヶ岳の裾野を広大な台地とすれば、その「突端」という位置に原山神社がありました。
神社前に続く参道の正面には南アルプスが一望ですが、八ヶ岳を生活の背景とする私には具体的な山名を呼ぶことができません。春霞で“青い墨絵”といった山並みですが、山襞の雪はまだ冬のままなのがわかります。
原山神社の境内は大規模な改修が終わった直後のようで、芽吹きの片鱗も見られない赤土に覆われていました。真新しい石段や社号標も、まだ周囲に馴染めずに居心地が悪そうです。満開は逃してしまいましたが、まだそれが想像できる桜を仰ぎながら案内板の前に立ちました。
冒頭の由緒に後半の伝承を加味すれば、「延元元年に、鈴石の上に原山神社を建立した」となります。そうなると、(後述となる)私が必要とする「原山」神社の由来がどこにもありません。
拝殿の「兎の毛通し(懸魚)」ですが、何と「ガ」です。初めて見ました。見た目からも嫌われる昆虫がなぜ一番目立つところに飾られているのか不思議でしたが、調べると、蚕の成虫として家紋にも用いられていることがわかりました。せめて白色に塗ってあれば、のけ反る角度が小さかったと思われますが…。現時点では、案内板にある祭神「木花開耶姫」と絹の原料「蚕」との関係は不明です。
北杜市(高根町)指定有形文化財の本殿を拝観しようと拝殿の後方に向かいますが、本殿は覆屋内にあり、屋根の一部が見えるだけでした。
実は「原山=御射山」と想定して「原山神社」に来たので、大棟にある飾りをズームを最大にしたカメラで観察しますが、諏訪社との関連性はありません。さらに、境内社を含め社殿の隅々まで目を皿にしましたが、わずかな繋がりでさえも見つけることができません。祭神の交代は間違いなくあったと思いますが、その痕跡を見いだせないまま引き揚げました。
高根町『高根町誌』から「原山神社」を開くと、諏訪系ではない「他七柱」の神々が列挙してありました。しかし、案内板とほぼ同じ内容ではヒントさえつかめません。本殿床下にある「鈴石」の写真だけが拾い物でした。
次は、山梨県近世史のバイブル・甲斐叢書刊行会『甲斐国志』を参照しました。
一、八幡宮 上黒澤ニ鎮座ス、上下両村ノ鎮守ナリ、(略)
又西峯(ヲネ)ニ王大神ヲ祀レリ、下黒澤村ノ原山明神七月廿七日参詣ノ者多シト云。
ここに、原山明神の“消息”が載っていました。目論見通り「下黒澤村の原山明神」が原山神社の住所「下黒沢」と一致し、例祭も「諏訪神社に限られる7月27日(旧暦)」に重なりました。また、御射山社の別称である「原山」神社から、『甲斐国志』が編纂された江戸時代後期(1815年頃)では、「原山神社は御射山社」であることは間違いないようです。
『社記・寺記』を参照すると、〔慶応四年辰七月日 由緒書上帳 巨摩郡黒沢村神主黒沢伊予〕では、黒沢村では黒沢村産神「八幡宮」と末社11社を挙げています。
原山明神を末社の筆頭としていますが、社地(24m×18m)を書くのみです。なぜ「原山」神社なのかを知りたかったのですが、これで、詳細は不明に終わりました。