鹿児島県では、同型の鳥居が横に二基並んだ「並立鳥居」を見ることができます。
すでに固有名詞となっているようで、ネットで「並立鳥居」を検索すると、「諏訪神社の並立鳥居」を推薦してくれます。
しかし、観光・名所案内のサイトやブログでは、その形態を、申し合わせたかのように「唯一・極めて希」などと大げさに紹介しています。その実態を知った私は、「異議あり」と、(お節介にも)“諏訪神社の本場”長野県諏訪の地から声を挙げてみました。
鹿児島県の神社については、諏訪神社の総本社「諏訪大社」が鎮座する長野県の諏訪からは、ネットを使った“遠隔調査”しかできません。
しかし、その手法でも10社の並立鳥居が見つかりました。そのすべては、「諏訪神社(南方神社)・鹿児島県」のキーワードに限定されます。鹿児島というより、「薩摩藩」とした方が正確かもしれません。
薩摩藩が幕末に編纂した地誌『三國名勝圖會(三国名勝図会)』があります。その中に「諏方」と名が付いた神社が繰り返し出てきますが、その発祥の地である長野県諏訪の図書館では手に取ることができません。そのため、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』を参照しました。
『巻之三』の「神社」部に、〔正一位諏方大明神社〕が載っています。神階が「正一位」で、しかも「当社は、鹿児島の総廟にして」とある記述から、鹿児島では最高位の神社であることがわかります。
関係する部分だけを転載しました。
正一位諏方大明神社 府城の東北 坂本村にあり、祭神二坐、その一坐は建御名方命、是を上社と称し、一坐は事代主命、是を下社と称し奉り、神體各鏡 櫝(ヅシ)を殊にす、上社を左位に崇(あが)め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す、
「櫝」は環境依存文字です。表示しない場合に備えて画像で表示したのが「」ですが、どう考えても「ずし」と読めないので、意味を含めて調べてみました。
この内容と「ヅシ」とフリガナがあることから、「厨子」の同意語とわかりました。また、続く「殊」は「異」の誤字ではないかと疑いましたが、辞書には【殊・異・事・別】は「別にする・区別する」とあるので、「神体の鏡は別々の厨子に収めてある」と解釈できました。
これで、祭神及び神体が異なる二つの櫝が一つ屋根の下に安置してある──すなわち「建御名方命(神体:鏡)・事代主命(神体:鏡)を、上社・下社として別々の本殿(厨子)に収め、両社を同じ社殿(合殿)に安置した」となりました。
しかし、文字の羅列では具体的なイメージは浮かびません。そこで、上百引(かみもびき)諏訪両神社の例を挙げてみました。このように、合殿が開放されていれば、「左右これを合殿に安す」を見ることができます。
改めて添付の絵図を眺めると、本社とある最奥の社殿が「合殿」になります。その中に、上写真と同じ配置で本殿が並んでいることになります。
このように、合祀ではない同格の別神社という考え方なので、それぞれに対応する二基の鳥居(◯)を建てることにしたのでしょう。それを、現在の我々が(勝手に)「並立鳥居」と呼ぶようになったという次第です。
「鹿児島の総社」が諏方大明神社ですから、その形式がそのまま各地の分社−諏訪神社に伝わったことになります。ところが、現在は、『三国名勝図会』に登場する諏訪神社は影を潜めています。調べると、「明治初期に、多くの諏訪神社が南方神社と改称した」ことがわかりました。
私は長野県人なので、「なぜ」と問われても沈黙するしかありませんが、これについては、枕崎市鹿篭麓町鎮座の南方神社『由緒』が参考になります。
ここに登場した「本田出羽守」は、『三国名勝図会』の〔正一位諏方大明神社〕にも名前が載っていました。
何と、諏方大明神社の大宮司・藤原親徳で、薩摩藩では最高位の神官でした。ただし、こちらの出羽守は時代に合わないので、その大宮司職と官位を継いだ神官が、“強権”を振るったと考えることができます。それはともかくとして、南方神社は=諏訪神社ですから、社殿・鳥居の形式はまったく同じになります。
引き続き『三国名勝図会』で、並立鳥居のある絵図を探してみました。
南方神社T
見た通りの「並立鳥居」ですが、当時はこれが常識(正式)だったということなので、並び建った鳥居についての説明はありません。
鎮座地ですが、「高城郡」とあっても、どこにあるのか見当も付きません。「千臺川畔にあり」から「高城郡 千臺川」で検索すると、『鹿児島県神社庁』のサイトが「南方神社−薩摩川内(せんだい)市湯島町」を表示しました。
その南方神社を地図で確認すると、その通りの「川内(千臺)川畔」にありました。また、川に突き出た部分があることから、「磧の根に諏方神祠あり」が理解できました。
南方神社U
絵図に「諏方神社」と書き込まれていますが、本文を参照すると「諏方上下大明神社」でした。
「谷口村にあり…」から「伊集院 谷口」で検索すると、「日置市伊集院町下谷口」にある「南方神社」でした。
「現在はどうなっているのだろう」と現地へ出掛けると、残念ながら鳥居は一基でした。案内板ではそのことに全く触れていませんから、かなりの昔から並立鳥居は退転していたのでしょう。
古くに創建された諏訪神社では、“鳥居の並立は必須”だったことは間違いありません。しかし、現在は、総社である鹿児島市の南方神社ですら一基の鳥居しかありませんから、二倍の負担になる建て替えは次第に廃れて「単立鳥居」に落ち着いたのでしょう。
その結果、並立をかたくなに守って建て替えてきた神社と、先人が「石」鳥居を建てた神社に並立鳥居が残ったことになります。
一方で、日置市の諏訪神社では半永久的な石鳥居でも老朽化し、すでに貫(ぬき)がありません。倒壊の危険性から撤去される日も近いと思われます。
南九州市の南方神社では、平成28年の台風で片側の鳥居が倒壊しました。
両社とも早期の再建が望まれますが、氏子の減少に直面している現在では困難でしょう。
このような変遷を経ながら、並立鳥居が単立になっていった過程は容易に想像できます。
いちき串木野市にある南方神社では、案内板に「現在、二十五名の氏子が毎月の清掃及び毎年の例祭を行い、御守りしています」と書いています。
合併前の「串木野市」が見られるので、少なくとも10年以上前の案内板となります。その汚れ一つ無い案内板から、今でもしっかりと守られていることが伝わってきました。
現在は、全国津々浦々で少子化に伴う高齢化や過疎化が進み、神社の維持管理が困難な時代になっています。遠隔地から金銭を伴わないエールを送っても何の意味もありませんが、「ここは一つ頑張って、並立鳥居を存続させてください」と言うしかありません。
『三国名勝図会』に「湯之浦村海蔵院仁王門内正面、小牧山の山腹にあり。正祭七月廿八日。當社は梅岳君勧請し給ひしと、海蔵院由来記に見えたり。君加世田城を攻め給う時、誓願の故事として、正祭には流鏑馬ありしが。今はなし。農民金皷を鳴らして踊をなす」とあります。現在は単立鳥居です。