加世田の益山にある神社なので、「益山」を冠してみました。
名称は八幡神社ですが、薩摩の諏訪神社を象徴する並立鳥居が建っています。「なぜ」という疑問は、南さつま市教育委員会が設置した石碑を読むとわかります。
その鳥居に関して「鹿児島では…」と言っても諏訪系の神社しか見ていませんが、柱の根元が太くなっています。「藁座(わらざ)」と呼ぶそうで、多角形をしています。
「鳥居の柱を固定するために根元の周囲に打ち込んだ杭が、柱の飾りとして変化した」「長野県諏訪大社の御柱(おんばしら)に、その原形を求めることができます」と知ったかぶった話は別として、そこに「明治卅九年七月建設」とありました。碑の説明から、南方神社のために建てたのに、その四年後に八幡神社へ移転する羽目になったことになります。
拝殿の前に、仁王(金剛力士)像が立っています。鹿児島の神社では普通に見られる光景ですが、大きく、しかも完形であるのが不思議です。
多くの神社では、仁王像が廃仏毀釈で壊され、その痛々しい姿をさらしています。この八幡神社でも鳥居脇にあるものは体のあちこちを無くしていますが、写真のものは健在です。この不思議さも、後で、平成に寄進されたものとわかって納得しました。
本殿の扉が閉まっているので幣帛などの確認はできませんが、八幡神社とあって、瓦には各所に三つ巴の装飾が見られました。
合祀とは言え諏訪神社を表しているのは鳥居だけですから、諏訪の神様は一つ屋根の下で肩身を狭くしているのは間違いありません。
参道が広い、といっても車のすれ違いは困難ですが、余りにも直線が続くので、その先がどうなっているのか確認することにしました。
突端は大きな下りになり、その先には川が流れていました(※後述)。鹿児島の神社は「やはり川を前にしている」と頷いたのですが、全ての神社を廻ったわけではないので、今回もたまたまということになりました。
もう、4時も回ろうかという時間帯です。すでに九州の陽は斜光となって全ての影を長く延ばしています。異郷でのつるべ落としを恐れながら、カーナビに次の神社をセットしました。
教育委員会の説明が乏しいので、『鹿児島県神社庁』のサイトから転載しました。八幡神社の説明なので、南方神社は無視されています。
これを読んで、鳥居前の直線道路で流鏑馬が行われた可能性を考えてみました。
上写真のガードレール附近から、並立鳥居を撮ったのがこの写真です。果たして、この道を人馬が疾走したのでしょうか。
前出の『鹿児島県神社庁』に、中津野鎮座の南方神社があります。読み進めたら、移転前の(益山)南方神社の記述がありました。
「御神体を投げ入れた」とはどういうことなのか理解できませんが、その川が参道の先にあった「万之瀬川」でした。「あの川が…」と、時間が制約される中でわざわざ足を運んだ甲斐がありました。
「中津野」は益山八幡神社と同じ金峰町内です。Googleマップで調べてみると、「南方神社」が表示しました。
道沿いにあるのでストリートビューで走ってみると、何と、並立鳥居が…。長野県から駆けつけることはできませんから、その画像を載せてみました。
改めて、中津野南方神社「由緒」の前半部分を書き足しました。