以前、四国にある諏訪神社を探した際に、「(長野県)諏訪大社の“元宮”」と声を挙げている「多祁御奈刀弥神社」を知りました。同じような話は長野県にもありますが、遠く離れた四国にも伝承されていることに興味を持ちました。
それから何年か経ち、ようやく今回の九州諏訪神社巡拝の帰りに参拝することができました。カーナビ任せの進行方向でしたが、天草から延々と走り続け、ようやく、額束に「多祁御奈刀弥神社」と読める鳥居が建つ場所にたどり着きました。
式内社研究会『式内社調査報告 南海道』の〔阿波国名方郡〕に、「多祁御奈刀弥神社」があります。今回の参拝記は、その中から関係する記述を、順不同で挿入する形で書いてみました。
【社名】「タケミナトミ」と訓ずる。一般には「お諏訪さん」又は「東の宮」と呼ばれている。
「たけみなとみ」でした。直接には関係ありませんが「じゃー、西の宮は」と探すと、直線距離で6.5Km離れた隣町・吉野川市鴨島町に通称「西の宮」がありました。
「西の宮だからエビス」と予想しましたが、その通りで、祭神の一柱に事代主命がありました。
事代主命と(多祁御奈刀弥神社の祭神)建御名方命は兄弟神ですから、両社に何かの関連性がありそうです。しかし、“対の神社”として「東・西」の別称を付けたのか、単に「東と西にあるから」としたのかは、地元の人に確認しないとわかりません。
【所在】 鎮座地は、徳島県名西郡(みょうざいぐん)石井町浦庄字諏訪二一三番地の一(名西郡浦庄村大字諏訪字東内二一三の一)である。がつての土師郷にあたると云われているが、現在は国道一九二号線に沿った田園地帯にある。
「なにし」と読んでいましたが、「みょうざい」でした。その石井町ですが、四国を5センチ程度に縮小すれば、県外の人には徳島市にあると言った方がわかりやすいでしょうか。
式内社研究会では「八坂刀美命」を挙げていますが、境内にある平成24年建立の『多祁御奈刀彌神社御由緒』では「御祭神 建御名方神・八坂刀売神」でした(下写真)。
【祭神】 祭神は建御名方尊(命)と八坂刀美命の二座であるが、江戸時代の諸書から、同時代には建御名方尊一座であったらしいことが判明するので、明治以後に八坂刀美命が祭神に加わったのかもしれない。案外、この二尊は尊名がよく似ている所から、関係者が混同した結果、二尊が祭られることになったのではなかろうか。
ここに、「尊名がよく似ている」と書いています。しかし、「建御名方命と八坂刀美命がよく似ている」と言われても…。その疑問は、何回か読み返して、「神社名と」を挿入すれば意味が通ることがわかりました。つまり「この二尊は尊名が《神社名と》よく似ている」となります。単純な校正漏れと思われますから、正誤表があれば載っているかもしれません。
我流の補足として、「多祁御奈刀弥神社は、多祁御奈+刀弥だから、建御名方命・八坂刀美命の二尊を祀った」と書いてみました。
この流れでは、「八坂刀美命」で間違いないことがわかります。調査時には、神社から「八坂刀美命」の祭神名で回答があったのでしょう。
『阿府志(あわし)』に依ると、高志(こし)国造の阿閇氏(あべし)がこの近くの上浦に住んでいたので、同氏がこの地に生まれたと云われる建御名方尊を祭ったと想像している。また、『浦庄村史』に依ると、社伝記の記すところとして、信濃国諏訪郡南方刀美神牡は、宝亀十年(七七九)に阿波国名方郡の諏訪大明神(当社を指す)を移遷したとしている。
『阿府志』は、江戸時代末期に編纂された徳島藩の地誌です。『浦庄村史』は昭和40年の刊行で、地元諏訪村とは関係ない他村の史書です。両書とも客観性に欠くので、「そういう話もある」という程度に収めた方がよろしいのではと思ってしまいます。
因みに、前出の『御由緒』には、「長野県諏訪市にある諏訪大社は(宝亀十年)阿波から移遷されたとの説もあり」という書き方でした。
【由緒】 この社の中世以前のことについては殆ど知られていないが、藩制時代には藩から厚い信仰を受けたが、三代藩主(蜂須賀)光隆公が疱疹にかかられた際、この社が奇瑞を著し、一段と信仰が厚くなった。そこで参拝の為、鮎喰川(あくいがわ)を渡る不便を解消する手段として、この社の分霊を市内の佐古山に勧請された。その後、この分霊社が市民から深い信仰を得たことは、徳島県人の新しい認識である。
これを読むと、徳島市の佐古山に分祀された多祁御奈刀弥神社が、“諏訪神社”として大いに賑わったことがわかります。その一方で、「諏訪」の文字がない本社の多祁御奈刀弥神社は、その現状に憂いを持ったのは想像に難くありません。
写真は社前にある社号標で、「元諏訪社」と書いています。多祁御奈刀弥神社は諏訪大社の“元宮”と捉えて併記したのか・佐古山諏訪神社の本社としてこの四文字を加えたのか、私は後者と思いますが、真相の程はわかりません。
天保11年(1840)の銘がある一之鳥居の前に立った時、その前が田圃──すなわち「⊥」の参道と、神紋が刻まれた青石の台に疑問を持ちました。
参道については、この『調査報告』を読んで、200mなら流鏑馬馬場と理解できました。各地の諏訪神社で、社前の参道を使って流鏑馬が行われた例が少なからずあるからです。
また、この台を御旅所と知れば、本殿から御霊代を乗せた神輿が御旅所に御幸し、その前で神事を行っている光景が容易に目に浮かびます。かつては、ここに御幸した祭神に奉納する流鏑馬が行われたのでしょう。
ここで、この一ノ鳥居は「元々は御旅所の鳥居」という考えが浮かびました。どう考えても、神社の入口に障害物とも言える台があるのは、不自然だからです。つまり、かつてはここに社殿があり、「多祁御奈刀弥神社・鳥居⇔鳥居・御旅所」という対面した形式だったということです。
そう考えると、諏訪大社に倣って御射山社を併設した諏訪神社の形態が、この地でもあったことになります。
何かヒントがありそうと、神社の歴史に比べれば瞬きも同然と言える古さですが、国土交通省『国土画像情報』から、昭和23年撮影の航空写真を探しました。しかし、人家は少ないものの道路状況は現在と変わらず、構造物の痕跡も見つけることはできませんでした。
天明三年(1783)の銘がある随身像です。石質と加工の丁寧さからか、風化があまり見られません。顔が柔和なので、どっしりとした造形とともに親しみを感じます。何しろ、昨日までいた九州では、同じ場所には憤怒の仁王が踏ん張っていました。
境内には、遠くからでも指を差せるイチョウの大木があります。季節柄ギンナンがばらまかれたようにあり、その旬の匂いを車に持ち帰らないように避けて歩くのに苦労しました。
私は諏訪神社を多く参拝していますが、「鎌の打ち合い(違い鎌)」は、京都府南丹市美山町にある諏訪神社以来の2例目となりました。神紋では、珍しい部類に入ることになります。
拝殿前に注連柱(しめばしら)があります。文字通りの注連縄を張るものですが、ここでは棹で下げられていました。周辺の神社でも同じようなものがあったので、徳島県とは言えませんが、少なくともこの近郊では標準的なものと思われます。
拝殿の大棟や唐破風の鬼板、軒瓦の一つ一つに神紋「鎌の打ち合い」があります。向拝柱の貫にある蟇股にも同じ彫刻が見られますが、形が崩れているので本来のものではないでしょう。
注連縄にもワラで作った鎌があしらわれているので、それを前景にした写真を紹介します。実は、これが見たくて四国まで足を延ばしました。
参拝した時の記憶になかったのですが、写真で確かめると千鳥破風がありました。改めて眺めると、かなり凝った造りの屋根とわかります。神紋の印象が余りにも強すぎて、社殿全体の印象が薄くなったようです。
参拝記帳簿があったので、遠くから来たこともあって名前と住所を書き入れてしまいました(過去の例から、後で寄付のお願いが…)。
拝殿から本殿が拝観できますが、その前がガラス戸なので、背後の景色が映っているのを見るだけとなりました。それでも赤い屋根と神紋を染め抜いた定紋幕が確認できるので、私自身も写っているこの一枚を載せました。
不思議なことに、幣帛が三本上がっています。「残りの一柱は?」ということになりますが、境内にある由緒には二神しか書いてありません。ふと、この神社では、「今は忘れられた原初の神(多祁御奈刀弥命)を内々に祀っているのではないか」との不遜な考えが浮かびました(これが事実だったりして…)。
逆方向で撮ってみました。
地図では、参道の延長線にある山に「日吉神社」があります。
その祭神が山から下りて御旅所に御幸した──遊びに、または挨拶に来たと考えると大変おもしろいのですが、日吉神社と諏訪神社の関係は知られていません。たまたまその位置にあったということでしょう。
ここでは「巨石」ですが、普通の「力石」でした。これを見て頷く人は皆無と思われるので、写真は省きました。