知人の話で「筒粥神事がある南宮神社」と知っていました。しかし、その鎮座地が「上伊那のどこか」という知識しかありません。その上伊那郡に行く機会があったので、ネットの情報を幾つか参照してみました。
南宮神社は国道153号沿いにあることがわかりましたが、かつて参拝した「御射山三社」と密接な関係があることを知りました。御射山三社は当サイトで取り上げているので久しぶりに読んでみると、書いた本人がとっくに忘れていた「南宮神社」の文字を見つけました。
前回取り上げた松島神社絡みの参拝なので、箕輪町役場に車を置いて、一駅ですが伊那松島駅と木ノ下駅の間を歩くことにしました。現在はバイパスが開通しているので通行量は確実に減少していますが、かつての三州街道なので「出桁造」の民家が幾つか残っており往時の賑わいが想像できました。前方にこんもりとした木々が確認できると、徐々に確実に南宮神社に近づいているのがわかります。
国道側に向いた鳥居をくぐると、その先に、複雑な構成ですがすべてが一体化したかのような特異な社殿が現れました。
側面を見せているのが不思議ですが、(私には右方に当たる)社殿の前方に白御影石の鳥居が見えるので、そちらが表参道と思われます。
その鳥居から退出し、改めて社殿を正面に見ながら鳥居をくぐりました。
写真では箕輪町天然記念物のケヤキを含めた社殿がくすんだ色で写っていますが、決して大河ドラマ『平清盛』を意識して画像処理をしたわけではありません。ポツポツと降り始めた雨空が原因です。
5月下旬のこの数日は長野県でも不安定な天気で、午前中は晴れても午後は「一天にわかにかき曇り」というパターンが続きました。今日も、遠雷に合わせて風が出始めると、傘を開くのが迷う程度の雨が落ちてきました。
本殿は覆屋で囲われているので、社殿の間からでも屋根のこけら葺きの一部が見えるだけです。 左写真は、塀を乗り越えて撮ったのではなく、案内板に印刷された本殿のカラー写真を代用としたものです(念のため)。
箕輪町指定有形文化財とある案内板では「一間社流造で、主屋(もや)の四方に縁を回し、擬宝珠高欄(欄干)がつく。寛政九年(1797)に造営されたもので、棟梁は諏訪大隅流の伊藤(柴宮)長左衛門である」とあります。
幣拝殿の扉には、“上伊那郡の常識”お宮参りの扇子が結わえてあります。
その左右は、所謂(いわゆる)諏訪造りの片拝殿と思われますが、正式な名称はわかりません。唐破風の鬼板は諏訪梶で、諏訪社を表していました。
この写真は、例祭時(24.7.15)の拝殿内部です。手前に狛犬、奥には神像が飾られていました。
賽銭箱と定紋幕の神紋が「明神梶」であることがわかります。改めて確認すると、諏訪梶と明神梶が広く混在していました。
社殿の神紋は「諏訪梶」と「明神梶」が混在していますが、諏訪神社であることは間違いありません。基本は下社系のようで、「春宮」とも呼ばれるこの南宮神社は、天竜川の対岸にある三日町の南宮神社秋宮の間で遷座が行われます。箕輪町誌編纂刊行委員会編『箕輪町誌歴史編』から、その一部を引用しました。
「御射山祭の祭神として…」の部分が説明不足になっています。春宮⇔秋宮間の遷座のほかに、御射山祭として秋宮⇔御旅所で三日間の遷座が行われるということです。
平成24年の「御鹿(おしし)奉納神事」で本殿が公開されていたので、参考として追記しました。覆屋の壁と本殿の周りが1mというスペースしかないので見上げる写真となりました。彫刻については詳しくないので、説明は省きました。
本殿直下の“謎の囲い”です。「心の御柱」があったのか、かつては「土が御神体」だったのか、興味は尽きませんが、現時点では何もわかっていません。情報の提供が望まれます。
本殿向拝柱の梁にある龍の彫刻です。本殿前にある案内板の写真では、最前部に写っているのがこの彫刻です。
身舎と虹梁の彫刻です。御覧のような戸板で囲われているので、本殿の前面を観察することはできませんでした。
本殿覆屋の左右(片拝殿後方)に別個の覆屋があります。ここに神社合併時に合祀された御社宮神などの本殿がありました。
御社宮司社
拝殿に向かって左側の覆屋の中にある社殿です。下に落ちていた紙を「もしや」と拾い上げたら、「御社宮司社」と書いてありました。説明用の張り紙が剥がれたのでしょう。
神明宮
右側の覆屋には神明造の社殿があります。名称は不明ですが、取りあえず神明宮としました。萱葺きですから、なかなかの重厚感が伝わってきました。