上島の元諏訪神社からとって返し、今は天草市となった旧本渡市を抜けて下島を横断しました。山の中をひた走りに走ったというのが印象ですから、島と言う意識はまったくありません。ようやく海辺に出て、九州諏訪神社巡拝の“上がり”となる崎津集落に入りました。
それにしても、「天草ではスピード違反の取り締まりはやっていないのか」と思えるほどの、70Kmを越す“天草標準速度”に驚きました。私としては、先頭を走ることを極力避けましたが…。
今回の「天草の諏訪神社巡拝」では、崎津集落にある諏訪神社は絶体外せないと位置づけていました。
その理由は「天草崩れ」にありますが、ア津・今富・大江・高浜四村で行われた潜伏キリシタン摘発の話は、ここでは省きます。
参道入口に狭いながらも駐車場があり、12月の平日とあって、我が物顔に駐めることができました。観光目的なら「まずは崎津天主堂へ」ですが、私は「諏訪神社」です。ところが、参道の先には、ショベルカーが通せんぼしていました。
九州自動車道では熊本地震の修復工事で対面通行の区間がありましたから、「その影響がここにも」と思いました。
しかし、境内横にある東屋の工事と教えられ、迂回路を伝って二之鳥居が建つ境内に立ちました。
やはり、崎津天主堂の存在は大きなものがあります。誰もが思いつくように、鳥居の写真に、その尖塔を取り込んでみました。
さらに上の壇に立つと甍の波が広がり、その中から突き出たような天主堂の存在感が増しました。
この光景は天草独自のものですから、「それぞれの氏子と信徒がお互いをどう眺めているのか」と世俗的な思いに駆られました。その勝手な思いを、狛犬に託して表現してみました。
この鳥居には、多くの文字が刻まれています。その中に「諏訪霊神」とあるのを見つけました。
左の「遷此崎津」が「此の崎津に遷し」と読めたことから、何か面白くなって、その他の文字列を何枚かカメラに残しました。これが、後の“鳥居を読み解く”に繋がりました。
拝殿脇に案内板があります。まずは前半部分です。
谷の底をなぞるようにして社殿が奥に延びています。「この時期は」と確信を持って言えませんが、日陰となった社殿には、天草をイメージする諏訪神社の姿はありませんでした。
案内板には、拝殿や本殿についての説明がありません。そうなると、大棟の鯱(しゃちほこ)を眺め終われば、まだ決めていない四国入りをどうするかが目前の課題となって胃を重くさせます。
駐車場に戻り、フェリーと瀬戸大橋の選択がありますが、取りあえずの行き先として、ジャンクションがある久留米をナビにセットしました。
自宅で、撮っておいた案内板を読んでみました。そこにある鳥居の説明には、
「二の鳥居は、貞享二年(1685)六月宮司木下主水佐(もんどのすけ)忠好の代のもので、現存しているものでは天草最古のものである。それには次のような貴重な文字が刻銘されている(□印は現在欠落しているところ)」とあり、鳥居の銘を
諏訪霊神維徳維新曽従科野 遷此崎津鎮肥後国本草民
嘉禾年熱□□日録黎庶抽悃 華表ワa□□嶋世下□□□
と書いています(左写真参照)。
余りの漢字の羅列に、これは「四言詩」のように読むべきではないかと直してみました。
諏訪霊神/維徳維新/曽従科野/遷此崎津/鎮肥後国/本草民…
嘉禾年熱/□□日録/黎庶抽悃/華表ワa/□□嶋世/下□□□
これを読むと、一文字足りない箇所があり、意味不明となる字もあります。こうなると、お節介と言われようとも、私の探究心(あら探し)がムクムクと…。
撮っておいた写真を突き合わせると、「澤」が抜けています。誤読(字)もあり、「本→天・熱→熟」と修正して、以下を原本としました。
諏訪霊神 維徳維新 曽従科野 遷此崎津 鎮肥後国 澤天草民
嘉禾年熟 □□日録 黎庶抽悃 華表ワa □□嶋世 下□□□
1行目は「諏訪霊神の維徳維新を、曽(かつて)科野(信濃)より此の崎津に遷し、肥後国を鎮め天草の民を澤(うるお)し」となりました。
ところが、次を「禾(いね※稲)の熟れる年を嘉(よみ)し」と強引に読んでみましたが、「華表」が鳥居の別称と知っていても、その前後が読め(わかり)ません。前半で諏訪霊神の威徳をよく表しているので、これで終わらせることにしました。
案内板から、鳥居造立分のみを転載しました。
貞享二乙丑六月
肥前国崎陽晧臺禅寺(こうだいぜんじ)湛元(たんげん)□□ 吉田新右衛門 松田興次右衛門 増田孫兵衛 浦壁伊兵衛 当村庶民等同拾資敬立 石工本山徳兵衛
「崎陽って何だ」と調べると、なぜ長陽ではないのかの説明はありませんが、「長崎を中国風に呼んだもの」とあります。ここで「シューマイの崎陽軒(きようけん)」が理解できたというのは置いて、「信陽」にリンクしました。
話は長野県へと大きく飛びますが、諏訪大社下社「春宮の大灯籠」に「信陽」が刻まれています。長らく「信州の別称らしい」としていたのですが、「信州を中国風に(しゃれて)呼んだもの」と納得しました。