鹿児島の県都とあって片側3車線(時には4車線)になり、周囲を取り囲まれるように走ります。しかし、カーナビの支援があるので右左折も心配ありません。正面に(後で照国神社と知った)鳥居が見える交差点を右折すると、急に車が減りました。九州を代表する国道10号ですが、県と市の政治・経済・観光圏から出たということでしょう。
国道脇の神社なので、駐車場の心配をしました。住宅地の中で神社に近いところを設定しましたが、目の前が南方神社の境内という位置に導いてくれました。
現在の鳥居は一基ですが、薩摩藩の地誌『三国名勝図会』では〔諏方大明神社〕として並立鳥居が描かれています。
「明治維新までは」とは断言できませんが、社殿が幾つも並び立つ大きな神社であったことがわかります。社頭にある案内板『上町五社(南方神社) 五社詣の賑わい』から、一部を転載しました。
前出の絵図と違い、境内には、最近再建したという拝殿と本殿が前後に連結した社殿しかありません。その本殿を見上げると、典型的な置千木(おきちぎ)がありました。鹿児島の諏訪神社(南方神社)の伝統的な造りと異なっているのは、現在の“ニーズ”に合わせて新しいデザインを採用したということでしょうか。
私の主観はともかく、鬼板と懸魚に、鹿児島では初めてという「諏訪梶」を見ました。これは(諏訪神社の総本社)諏訪大社上社の神紋ですから、下社はどうなったの、ということになります。
拝殿から撮った本殿ですが、扉が一つしかなく、その飾り金具も「諏訪梶」です。
前出の『三国名勝図会』では「祭神二坐、その一坐は建御名方命、是を上社と称し、一坐は事代主命、是を下社と称し奉り…上社を左位に崇め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す」と書いていますから、下社の姿が見えない「上社(建御名方命)だけを祀った南方神社」ということになります。この仕様には疑問を持ちますが、これが現在の祀り方ということでしょう。
左方の鴨居の上に鎌が下がっています。鹿児島の諏訪神社には鎌を御神体としている神社もありますが、これを見る限りは、単なる奉納品ということでしょう。右には、「諏訪市」の古い写真が掛けてありました。
境内には立派な灯籠が幾つか見られます。ただし、すべてに火袋や笠がありません。それらのモノは、境内の隅に集められていました(写真右奥)。
棹だけとあって寄進者名を読むしかありませんが、何れも「島津」が大きく深く刻まれていました。「もう少し控えめ(小さく浅め)な方が」というのが私の基準ですから、これが薩摩人の気質なのかとも思ってしまいます。
島津宗家が庇護していた神社ですから、藩主の名前がありそうです。しかし、次の目的地は移動距離がある熊本の天草です。何枚かの写真を撮って、鹿児島では最後になる南方神社から引き上げました。
南方神社の正面を撮る時に見つけたのが「諏訪馬場」です。中心に据えたので南方神社がわかりにくくなっていますが、碑の上辺りに鳥居があります。
「すわんばあ」とふりがな通りに読んでみましたが、何かしっくりきません。ここに、流鏑馬馬場か笠懸馬場(または犬射馬場)があったと考えました。
Blog『鹿児島ぶら歩き』の〔東・西千石町の由来〕で、以下の記述を見つけました。
ここでは、馬とは関係ない馬場でした。それでも、乗馬の訓練ができる規格の道であったと想像してみました。ところが、他のBlogでは「鹿児島では、昔、通りのことを馬場(ばぁ)と呼んでました」とあるので、何とか「馬」に結びつけようとする努力は放棄しました。
島津氏は古い氏族なので、多くの分家があるのはNHK大河ドラマ『篤姫』て知っていました。それがために、同姓同名の島津さんが多くいることになります。
それを踏まえてフルネーム「島津内匠久徳」で検索すると、サイト『郷土研究ノート』の〔加治木島津家領主と主な事柄〕にありました。
○ 寛政10(1798)年4月14日生〜嘉永3(1850)年1月10日卒
○ 名 省之助、又八郎、兵庫、内匠、久徳島津久徳は複数人いますが、「内匠」を含むのは加治木島津家の久徳しかいないので、灯籠の本人としました。左の「又八郎」は加治木島津家当主の幼名ですから、久徳の長男を連名としたのでしょう。
タイトルの名で検索すると、「小松清猷(きよもと)の妻が島津静洞忠貫の娘」と、本人ではありませんがその関係がわかりました。
これを『Wikipedia』を参考にして書き直すと、灯籠を寄進した忠貫の娘「速」が嫁いだのが小松清猷(沢村一樹)。清猷が赴任先で病死したため、清猷の妹「近(ともさかりえ)」を娶った肝付尚五郎が小松家を継いで小松帯刀(瑛太)を名乗った、となりました。( )を加えて書くと、『篤姫』を思い出して合点する人も多いと思います(私は、これで理解できました)。
ただし、「速」は二ヶ月で早世したので、島津静洞忠貫と小松清猷との繋がりは消えていたことになります。