福島県の守屋神社を巡拝する機会があったので、「会津若松市に諏訪神社はあるか」と検索すると、会津大鎮守の六社では最高位という「諏方神社」がありました。
桜に彩られた諏訪神社を期待したのですが、つぼみはまだ固く(右上の梢)、その上、傘をさしての参拝となりました。
文化二年の銘がある灯籠が余りにも凝った造りなので、しばし、周回しながら眺めてしまいました。
視線を落とせば、何と、基台はカメです。寄進したのは「大二御神楽講」ですから、講であっても財力があったのでしょう。それを含めた二対の灯籠には神紋「立ち梶の葉」が彫られていました。
拝礼を済ませた目で拝殿内を透かすと、定紋幕にも同じ神紋が染め抜かれています。各所に梶の葉が見られたことから、「確かに諏訪神社」となりました。
後の情報で、二之鳥居に戊辰戦争の際に付いたとされる弾痕が今も残っていることを知りました。冒頭の写真を拡大すると、幾つかの穴が確認できます。
改めて全体を観察すると、柱が継ぎ足しであることに気が付かされます。そうなると、ひび割れを綱帯で補強した上部が古く、それに連結する貫(ぬき)も同時代のものであるように見えます。
鳥居の建て替えは、すべてを一新するほうが合理的です。あえて二つの古材を残す工法を採ったのは、「弾痕とされる」であっても、当時のものを後世に伝えるためと考えてみました。
具体的な情報がないので私見となりますが、それらしく見える節穴を除くと、○部が弾痕となりました。この小さな穴が“会津に鎮座する諏方神社の見所”の一つなので、参拝の機会を持つ方は見落とし無きように…。
由緒書きを見落としたので、ネットを閲覧しました。しかし、諏訪神社の特色を打ち出したものはありません。しかたなく、『国立国会図書館デジタルコレクション』にある、会津藩地誌局編『新編会津風土記』(以下『風土記』)を参照しました。「これが大当たり」というのは後述とし、〔若松之二〕から[諏訪神社]を転載しました。
■ 読みやすいように分割(一部省略)し、旧字・異体字は常用漢字に、カナは平仮名に変えました。ここでは、「諏方神社」ではなく「諏訪神社」の表記です。
会津六社 (中略)の一にて若松の大鎮守なり。祭神は武御名方命相伝う。昔葦名氏、新宮某を征せんとて河沼郡笈川村まで行向かうに、一人の祢宜(ねぎ)鉾(ほこ)を荷(担)いで陣前を過ぎるあり。自(みずから)謂(い)う。某は信州諏訪の社司なり。諏訪は軍神なればかく行逢奉(たてまつ)ること吉祥と云うべし。今日の軍必(かならず)利あらんと。
葦名氏大に喜び、彼をして先登(せんとう)たらしむ。此日新宮氏戦わずして雌伏(しふく=降服)せしかば、其神徳に感じ、伏見院永仁二年(1294)八月当社を勧請す。
小野氏・佐久氏・笠原氏三員の社家神輿に従い来る。其の時神体を奉し来れる唐櫃(からひつ)今は失うに纒(まと)いしなりとて鉄の注連(しめ)あり、其の四手(紙垂)に永仁二年(1294)の紀号あり宝物の部に出ず。
長野県から、出身地が氏名(うじな)と思われる三人が諏訪神社の神官として赴任して来たことになります。その時に神体を安置した櫃を結んでいたという「鉄の注連」について〔宝物〕を参照すると、以下の説明がありました。
一連の四手(垂)に「奉観請仕諏訪大明神 永仁二□□八月吉日 神(※姓)佐久祝(さくほうり)本願」と彫り付けあり。按ずるに、永仁二年は申午なり。又観請は勧請を誤りしなるべし。
これに大なる興味を持ちましたが、この記述からは「鉄で作った注連縄」の具体的なイメージは浮かびません。元に戻ります。
後、円融院永和元年(1375)、当社造営七月十四日柱立ありしこと諸の旧記に見ゆ。疑らくば再建のことなるべし。其の後、後奈良院天文五年(1536)四月二十六日・同七年三月二十日両度の火災に罹(かか)り、珍器重宝旧文古記多くは灰燼(かいじん)に委し履歴の詳らかなることを知り難し。
『風土記』が編纂された時点で、三回の再建があったことがわかります。ここで[本社]の詳細です。
柿葺にて三間四面(※間)南向き (中略) 神体は天羽車に封す。祭礼七月二十七日・二十八日なり。二十六日を前斎とす(※後述)。又五月五日に小祭あり。花会(はなのえ)祭と唱(とな)う。七月を大祭とす。三済(みさ)(※御射)山祭と唱え、茅ノ穗にて神供をかざり神前に供す。因って又穗屋(ほや)祭とも云。本社(※現諏訪大社)の式を模せるなり(※後述)。
往昔神輿渡御の祭と云うことあり。諏訪小路と云う所この地今詳らかならず。或謂う、今の諏訪四谷より赤井丁に出る小路なりとより神輿を担ぎ出して、黒川の町々を渡りせしとぞ。後、この事久しく中絶せしが宝永中(1704-1710)正一位の神階を請受しより再び旧例によりて此祭あり若松の條下と併せ見るべし。これを授光祭と唱う位記の文に宜授榮班式光祠壇と云に基づくとぞ。
「天羽車って何だろう」と調べれば、近いところで「御羽車(おはぐるま)」しかありません。
ヒノキの白木造で5m余の長柄をもち、白羽二重・錦でおおった方形のもの。車と称するが、車輪はなくかつぐ。神の遷宮、特に賢所のお移りのときに神霊を納める輿。天羽車。
最後の別称「天羽車(あまのはぐるま)」で一致して頷きましたが、諏訪大社の神輿と同じ形状であることに驚きました。
〔宝物〕の一部です。
薙鎌 一挺 勧請以来の神宝にて極めて古物なり。
各地の諏訪神社(分社)には、本社から授与された薙鎌(なぎがま)が御神体や神宝として伝えられていることがあります。会津若松の諏方神社にも薙鎌が存在していることがわかりますが、戊辰戦争で社殿が焼失しているので現在はどうでしょうか。
会津大鎮守と呼ばれる諏方神社の史料探しで、本殿の後方に土壇「御神体の御射山(みさやま)」があることを知りました。
こうなると、「御射山」を載せずして「会津の諏訪神社」を締めくくることはできません。しかし、その写真がありません。
何かないかと探せば、『国立公文書館デジタルアーカイブ』にある『新編会津風土記』に御射山を見つけました。
本社の後土居につきて、周(まわり)数間の築山あり。信州の御射山をかたどりしと云う。注連(しめ)を廻して不入の地とす。俗に獅子山と稱(とな)える。
ストリートビューでは御射山の後方を見ることができますが、本殿との位置関係がハッキリしません。
モヤモヤしたものを抱えてきましたが、初参拝から5年後に御射山の写真を撮ることができました。境内一面が草で覆われていますが、〔諏訪宮図〕と同じく基部が石垣で囲われているのがわかるかと思います。
前出の『風土記』から、「(※後述)」とした部分を抜粋しました。
ここで言う本社は長野県の諏訪神社(現諏訪大社)で、旧暦の7月26・27・28日には御射山祭が盛大に行われました。また「本社の式を模せる」とあるので、会津でも同じ内容で祭礼が行われたことがわかります。
しかし、ネットではこれについての情報が見つかりません。早くに廃絶し、土壇に「御射山」の名が残るのみということでしょう。
参考として、現在は一ヵ月遅れの8月26・27・28日に行われる諏訪大社「御射山祭」の写真を用意しました。神前にススキ(茅ノ穗)を飾っています。
新たな諏方神社の史料がないかと、『国立国会図書館デジタルコレクション』を覗きました。その中に明治30年出版の『会津史 巻之九』を見つけ、第八編−第七章上[容保公の籠城]から「諏訪」の名がある部分だけを転載しました。ただし、画像をOCRソフトを使ってテキスト化したものなので、誤字が混在している可能性があります。また、旧字や難読字があるので読みづらくなっていますが、その分、戦闘の激しさが伝わってきます。
冒頭では「鳥居の弾痕」を物見遊山風に書いてしまいましたが、これを読んで、現地で手を合わせなかったことに悔いが残りました。また、読みや意味などを加える予定はなかったのですが、何か私の義務のような気がして一気に書き加えてしまいました。
として、戦死者31名の名前が載っています。
中程にある「流血杵を漂す」ですが、中国語「血流漂杵」の日本読みとわかりました。
血と杵がどうしても結びつかず、つい調べてしまいました。