小字(こあざ)が「諏訪」なので、旧村名でもある大字「浦之名(※古名は裏之名)」に合わせて「浦之名諏訪神社」としました。
その「諏訪」ですが、現地の案内板に「18世紀中頃に諏訪講が盛んになった」とあるので、それ以降に、その名称が一般的になったと思われます。
加治木(かじき)ICを含め、入来(いりき)町へはナビの言いなりのままです。道中で標識「蒲生の大クス(楠)」を繰り返し見て、最終的には蒲生八幡神社の一之鳥居と脇にある看板「日本一の巨樹・蒲生の大クス」を眺めて通り過ぎました。
その神社についての記憶は場所も含めてまったく残っていませんが、クスの葉を一枚頂いてガイドブックに挟んだことを思い出しました。遥か昔のことです。
計画通り、道に面した「諏訪温泉」の駐車場を寸借しました。
Googleマップに「諏訪神社」へのナビをお願いすると、道無きルートを指示します。
仕方なく、方向はやや異なりますが、山中に分け入る一車線幅の道に見当を付けました。道の表示が無くなった地点で悩みましたが、なお道なりに進んでみると、現在地の表示が刻々と右(東)側に動き、諏訪神社に近づいているのがわかります。改めて、人家のない無い場所ではスマホは必携のアイテムであることを実感しました。
それぞれの鳥居に「諏訪神社」を掲げた並立鳥居が現れるまでは、「鹿児島まで遙々来た」感がありました。しかし、この景観はネットで見ていたので、「これか」で終わってしまいました。
次第に雲が広がり、社殿内を撮るには条件が悪くなりました。
その中で神楽殿に「諏訪神社」が掛かってるのを見ましたが、それ以外に「諏訪」を表すものを見つけることはできませんでした。
格子戸から入る光がすべてという拝殿内を拝観すると、おぼろげながらも本殿が確認できます。
このような時に備えているf1.4のカメラに替えて構えますが、測距用のイルミネーターに照らされた部分がボンヤリと赤く浮かび上がるだけです。フラッシュも格子に妨げられますから、取りあえずシャッターを押したというのがこの写真です。
陽が陰って回復しないのを見れば、長居はできません。見納めに鳥居を仰ぐと、何かの違和感を感じます。「もしや」と柱に手を触れると冷たさがありません。拳で叩くと、その感覚と反響音から樹脂製であることに気が付きました。
帰り道でお年寄りに出会いました。まず「こんにちは、諏訪神社に参拝してきました」と挨拶します。これで警戒心が和らいだと判断し。鳥居の材質について問うてみました。「平成5年に、木製の鳥居を樹脂製に替えた」と言いますから、その後の星霜を経て、初めて見る人にも違和感(その違い)を感じさせない貫禄を付けたことがわかりました。
この後は入来町にある図書館で諏訪神社の由緒を調べ、ついでに入来麓(ふもと※城下町)武家屋敷群の散策をする計画でした。それが、今日は月曜日と気が付けば、雨の心配もあり、すべてをキャンセルして次の諏訪神社に向かうことになりました。
重要文化財が「イスノキ」と言うのもおかしな表記ですが、鳥居脇にある案内板に、諏訪神社の由緒が並記してあります。
その内容から正式名称は「諏訪・山王神社」となりますが、立ち寄り参拝者の目では諏訪色以外は見えません。
公式に(現在)はどうなのかと、サイト『鹿児島県神社庁 KAGOSHIMA SHRIN AGENCY』を閲覧してみました。以下は〔諏訪神社〕の一部です。
案内板『天然記念物 イスノキ』の内容を参考にしたように思えますが、現状(法人登録上)では諏訪神社一社としています。
前出の本殿写真を明るくすると、本殿の形状がわかる状態になりました。
この相殿を「諏訪・山王」神社とすることもできます。しかし、神社庁では「諏訪神社」ですから、現在は鹿児島県では定型の「事代主命と建御名方命の二柱を別棟または相殿形式で祀る」ことをこの地でも行っているとすべきでしょう。
「それをもって」と言うか、それ以前に二基の鳥居に諏訪神社の銘があるので、ここまでクドクドと書く必要はなかったことになりました。
幕末の地誌『三国名勝図会』を開くと、〔薩摩郡 入来〕の[裏之名村]には「大宮大明神社 當邑の総鎮守なり」があります。[神社合記]には、若宮明神社・廣瀬明神社・近岡八社・天満神社が見られますが、諏訪神社はありません。