島根県にある諏訪神社巡拝の計画を練っている時に、この鎌倉神社の情報をメールで頂きました。「鎌倉」ですから、諏訪神社ではないとして見逃すところでした。感謝しながら、巡拝のコースに組み入れました。
久野(くの)には、上久野に鎌倉神社・下久野に諏訪神社が鎮座しています。近接しているので、まとめて紹介しました。
今地図を眺めていて、雲南市の東端にある(大東町)上久野は、東に隣接する安来市とは水系が違うことに気が付きました。つまり、両市境が分水嶺ですから、鎌倉神社の背後を流れている、斐伊川に合流する久野川はあくまで“出雲圏内”ということになります。しかし、それがわかっても、(今のところ)何かに結びつくような事跡は見つかりません(残念…)。
拝殿前に、小文字の「巌根山(いわねやま)武御名方社」に並記する形で、大文字の「鎌倉神社のご案内」とある詳細な由緒書があります。冒頭の祭神を転載しました。
主祭神が諏訪の神なのに、“主神社名”が「鎌倉」であるのが解せません。それは当地の事情と理解を示しましたが、…【鷦鷯】が“書け”ません。ふりがなの「ささき」を変換すると候補の8番目に表示しますから、どうやら、私の知らない世界では結構普通に使われているようです。鳥の名と推察して調べると、「(名前だけは知っている)ミソサザイの古名」でした。
案内(由緒)が詳細なので、それに沿う方法で参拝記を書いてみました。
鎌倉神社後方の山が御神体とあるので、境内の端から、社殿を入れた構図で撮ってみました。
一つ目(小僧)にも見える特徴ある岩肌があるので、それを含めた山を御神体としたのも頷けます。
「以来、久野と名付けられ」とありますが、「以来」に対応する文言がありません。何回か読み返して、武御名方大神が詠んだ「幾代久しき黒金の野辺」とわかりましたが…。
神体山に城を築くので、新たに社殿を造って祀ったと理解しましたが、ここは「この山の荒神(武御名方犬神)を鎮めるべく」とすれば、立ち寄り参拝者でも労なく頷くことができます。
拝殿を前にして、里宮−奥宮の関係がわかるようなポジションを探すと、
枝葉の間(□)に求めるものがありました。
『雲陽誌 巻六 』〔大原郡〕の[上久野(村)]を開くと、この時代では、正に「八幡様」でした。
若宮八幡 土俗鎌倉明神と号す、相州鶴岡より勧請故に鎌倉というならむか、永正十六年・天文十八年・慶長十五年造立の棟札あり、祭礼九月廿四日なり、
古城 土人鎌倉の城という、城主年代詳ならず、案に鎌倉将軍家繁昌の時御家人築たる城なるべし、故に鎌倉と呼か、
“真ん中”の掲額が「鎌倉大明神」で、“右”が「巌根山 武御名方社」です。
案内板では主祭神を武御名方犬神としていますから、この序列には首を傾げてしまいます。もっとも、「鎌倉神社」として現在地に社殿を建てたのは渡辺さんですから、諏訪大社の地から来た私といえども文句は付けられません。
祭神が諏訪と鎌倉の神様でも、本殿は大社造です。しかし、これも“出雲の郷に入っては”ですから、やむを得ません。
後で知ったことですが、この神社の宮司宅が社地の隣にあり、案内板の「現社家勝部」がその人でした。
すでに5時を大きく廻っていますが、今や6月という昼間が最長の季節です。慌てず、奥宮を参拝することにしました。
草刈りを終えた男性に教えられて、登山口がある対岸に渡ります。簡素な木造の鳥居をくぐって山道をひたすら登ると、20分弱で「生山神社」を掲げた社殿に着きました。
この通り、社殿を入れたアングルでは、岩肌の全景を撮るにはこれが精一杯でした。
写真では写っていない単管とアルミの足場で作られた舞台造りとも言えそうな境内から、鎌倉神社を見下ろしました。
この時は思ってもいませんでしたが、山の向こうが、幾つかの諏訪神社を巡ってきた奥出雲町でした。
最後に、『出雲国風土記』には建御名方命は登場しないので、「武御名方犬神云々は、製鉄が盛んになった以降に作られた伝承」と考えてみました。これをネットで探ると、サイト『いずもる』の〔一つ目の山全体がご神体?巨石信仰か?〕に、一つの説としてありました。
案内板では「巌根山は、吾勝金山辺兄彦命が仕える神社」ですが、ここに来て、「巌根山は、吾勝金山辺兄彦命を祀った金山神社」とする“案”が閃きました。むしろこの説の方がスッキリしますが、私の思い付きでは即座に却下されるでしょう。
県道45号脇にありました。すぐ近くに人家があるので、この開放的な境内では、参拝も不審な行動に見られないように気を遣うことになります。
この県道は片側に歩道があり、縁石で区切られています。広い路側帯があると縁石の切れ目から車を入れることができるので、方向転換や駐車場として重宝しました。ただし、狭すぎて、それ用にしては使い勝手がよくありません。元々は歩行者用と言うことでしょう。そこに乗り入れて、徒歩で諏訪神社に向かいました。
神社巡りに限りませんが、5時ともなれば、焦りを感じる時間帯です。しかし、太陽と山の端(は)までの空はまだ広く、地上には衰えぬ光が満ちています。
と格好良く(強気で)状況説明をしましたが、普通の旅では旅館なりホテルに着いて一風呂浴びている時間です。それは考えずに、もう一社は参拝できそうと、写真撮影に専念しました。
上の写真にあるように、拝殿後部の隙間から本殿を仰ぎました。当然ながら、掲額は「諏訪神社」でした。
鳥居と本殿の他に諏訪神社を表しているものがないことを確認してから、車に戻りました。
『雲陽誌 巻六 』〔大原郡〕下久野に、この神社の記載がありました。
諏訪明神 勧請年暦分明ならず、本社二尺四方、祭礼十月廿八日なり、