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笠原 御射山社 伊那市美篶

 南信(南信州)にある御射山社を調べる中で、旧美篶村にある蟻塚城址に「御射山社」があるのを知りました。「諏訪神社−御射山社」の関係から、その麓に広がる河岸台地上に諏訪神社を探すと、建御名方命を祭神とする「末広神社」がありました。「諏訪」神社でないことが引っかかりますが…。

御射山社参拝 '22.6.24

末広神社

笠原御射山社 「まずは末広神社へ」と、その前に立ちました。
 拝礼の後で社頭に立つ石碑を読み進めると、「…文久三年に至り末広村と号す。嘉永三年一祠を建立し産土神となし…慶応四年に至り信濃国一之宮諏訪大神を勧請し社殿を造営し末広社と称し…」とあり、御射山社を持たない諏訪神社と知りました。

笠原

 末広神社から眺めた、山懐に広がる笠原の里です。背後の山には守屋山があり、守屋社も鎮座しています。

御射山神社

 「諏訪神社を伴わない御射山社」の前です。右に社号標がありますが、ここでは「蟻塚城と笠原氏」の案内板がメインです。

笠原御射山社
笠原御射山社

笠原御射山社 もう盛夏(せいか)とも思える日射しを受ける中、汗をかかないように石段を登り切ると、案内板の絵には「現在の御射山神社」とあった拝殿が現れました。
 本殿までやや距離があるので定かには見えませんが、カメラは詳細に写し取ってくれました。

御射山社由緒 伊那市教育委員会が設置した『御射山神社』の案内板です。ここには(教育委員会では)諏訪神社についての言及がないので、御射山社を単独で勧請したことが明らかになりました。
 今回は奥宮の参拝もあるので、ゆっくりはできません。Googleマップに表示する「笠原御射山神社奥宮」のポイントだけが頼りなので、徒歩で向かいました。

御射山社奥宮

Googleマップに表示する「御射山大社跡・御射山社奥宮」
 今日は、西箕輪の御射山大社跡を訪れた後の御射山社奥宮参拝です。一般の人には無縁の神社とあって鎮座地の情報がまったくありませんが、両社ともGoogleマップに表示します。結果として、スマホでそれを目的地にルート設定したら迷うことなく到着したので、大いに助かりました。 
 ポイントをクリックすると表示する写真の投稿者を確認すると、「yuji Sakama」とあります。同好の士と私が勝手に思っている、岡谷市在住の「坂間」さんに間違いありません。さらに、登録が2016年ですから、6年も前に先を越されたことになりました。

 スマホを片手に、鎮座地へ向かいます。

笠原御射山社

 山中に入ってしばらく歩くと、左方に、伸び始めた夏草の向こうに鳥居が見えました。マップの表示通りでした。

笠原御射山社

笠原御射山社 生気あふれる御射山社と異なる彩度が落ちた茶と緑の世界を進むと、予想と異なり、右手の壇上に側方を見せた奥宮がありました。
 拝殿の扉が半開きなので、遠慮せずに、本殿の前で拝礼をしました。蚊が寄ってくるので、腕を定期的に動かすのを欠かせません。

笠原御射山社奥宮 周囲の景観に合わせたかのようなカラーの案内板です。
 ここに、御射山社と同文の「焼失・再建」が書いてあります。これだけ離れた両社が同日に火災に遭うことはあり得ませんから。どちらかの間違いということになります。この疑問を感じながら、御射山社へ戻りました。
 「ここまで来れば、守屋社参拝も」と考えましたが、これ以上汗をかくのを嫌って、山頂に向かって遙拝としました。

御射山社と御射山社奥宮

 長野県『長野県町村誌』〔美篶村〕からの抜粋です。

【御射山社】村社 祭神健御名方命。社地東西九間、南北二十二間面積百八十九坪、本村の艮(うしとら)の方山間にあり。此社、祭典料として保科肥後守正之より、毎年米六俵二斗宛下賜。後鳥居主膳正忠春時代、祭典料を廃止となり、改て長柄十五筋・弓十張・鉄砲十挺・台挑燈一組御貸渡にて、祭典執行。神事済次第返納す。又内藤丹波守清枚時代より廃止となる。氏子、芦沢・笠原・大島・川手・上牧・野底の六村たり。後年間不詳。笠原の氏神とす。祭日九月十日、森中に檜椹老樹寔(まこと)に繁茂す。

 案内板では「保科公」でしたが、ここには「保科肥後守正之」とあります。「肥後守正之」でピンと来た方は、保科氏の居城があった高遠町の住民を除けば、かなりの歴史好きと思われます。私は、地元紙『長野日報』に連載された『保科正之人生道中記』でファンになりました。
 保科正之は徳川秀忠の庶子です。後の松平正之で、三代将軍家光の補佐をしました。初代会津藩主となって「会津家訓十五箇条」を制定しましたが、「それが大河ドラマ“八重の桜”に繋がった」との話は置いて、以下に進みます。

美篶村
長野県立歴史館蔵『美篶村全村略図』(部分)

 明治初期の村絵図を見ると今で言う奥宮の場所に「御射山社」がありますから、この時代では御射山社は一社と言うことになります。
 絵図とあって精度がありませんが、現在の御射山社をの位置に置いてみました。

 これについて、『伊那市史』を参照すると、

笠原の御射山社
 笠原の御射山(社)は奥宮が北村の東の山口の上、字御射山にあったが、昭和二十五年(一九五〇)十月十三日に焼失し、同二十七年四月に新築した。また、この時に数百メートル下の蟻塚城跡地字上ノ平に里宮を造り神楽殿や宝庫等を移転した。奥宮を旧御射山社と呼び、祭典には奥宮より神霊を里宮へ迎えて里宮で神事を行っている。

(中略)

 六か村の氏子中、大島村や上牧村は中世においては湛神事の神使の巡行地であった。現在、御射山社の祭礼には獅子舞が行われている。

伊那市史編纂委員会『伊那市史 歴史編』〔中世〕

とありました。つまり「村絵図にある御射山社が焼失したので奥宮として再建し、新たに里宮を蟻塚城址に新築した」ということなので、伊那市教育委員会の案内板が間違っていたということになりました。