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葛諏訪神社と供養塚 岩手県花巻市葛 第9地割

 9年前のことですが、旧諏訪神社上社で行われた「御頭祭」を調べる中で、六車由美著『神、人を喰う』を手にしました。
 〔人身御供と殺生罪業観〕の章では花巻市の諏訪神社にある供養塚の碑文を引用しています。「往古は三年に一度、生娘を犠として奉る習あれど、年を経て止む。郷中の者これを愁い、鹿を替わりとして奉る」というものですが、そもそも「諏訪大神が人間を喰うのか」という疑問がありますから、その塚を自分の目で確認したいとの思いがフツフツと…。

 葛諏訪神社参拝 '22.10.25

■ 花巻市には複数の諏訪神社があるので、字を冠した葛諏訪神社としました。

 カーナビが、各地で「第◯地割(ちわり)」を表示します。岩手県では普通の地番らしく、葛諏訪神社は「葛第9地割345」でした。

葛諏訪神社

 郷土芸能伝承館が併設された諏訪神社でした。「葛神楽」の案内板があるので、奉納神楽が盛んということでしょう。左方の石碑『諏訪神社由緒』から、必要なものを抜粋しました。

 当諏訪神社が此の地に奉斎された年代は不詳であるが、神威無双であって、或年旱天続きで田植えが出来ず、皆が大変難儀をしたことがあった。郷中の者達が諏訪神社の別当に願い、神前に祈願したところ、諏訪大明神が二十尋(ひろ)余りの大蛇の姿となって現れ、天に向かって、又池に潜ったところ、たちまち此の池より大水が湧き出し、無難に田植の仕付(しつけ)が出来たと言い伝えている。今もある御前池(ごぜんいけ)がこれである。
 文治五年(1189)、源頼朝が平泉の藤原氏を征討し、稗貫氏を本郡の領主とした。葛氏はその下にあって、葛邑(むら)一帯を領有して、「上ノ山」を居城ととして、以前より此の地に鎮座して地域民の信仰を集め、神威無双、又戦の神として崇められている諏訪神社を城の鎮護の神として敬い、天文五年(1536)建立の棟札に、大檀那修理太夫の銘のあるものがある。
 下って南部藩主も崇敬浅からずして、毎年幣帛料として玄米一石を寄進せられ、又宝暦四年(1754)建立の棟札に、大檀那信濃守の名も認められ、極めて由緒ある神社である。

葛諏訪神社 唯一見られた神紋は、賽銭箱の「三つ巴」です。神紋というより、神社の創建に関わった有力者の家紋ということでしょう。
 本殿は覆屋の中にあってぼんやりとしか見えませんが、目的が供養塚なので、その背後に向かいます。

供養塚

葛諏訪神社「供養塚」

葛諏訪神社供養塚 暗い樹下とあって周囲と同色に撮れていますが、これが、私のこだわりで長野県から遙々確かめに来た「生娘と鹿の骨を埋めた」塚です。

 その前に立つ石碑『供養塚の由来』をテキスト化してみました。氏子総代と宮司名があります。

 諏訪大神の霊験無双にして、世の人々尊崇し奉り、往古は三年に一度、生娘を犠として奉る習あれど、年を経て止む。郷中の者これを愁い、鹿を替わりとして奉る。その骨を埋めたる塚の跡今に残る。鹿の犠、成り難くなりてより、雲南堀よりの鮭を奉り後は真紅の海魚を替りとして奉る。
 古老曰く「塚に登れば足が曲がる」として神聖視して来たれるも年を経て荒廃し、言い伝えも茫(揺?)らぎしにより、復旧し諏訪大神の御神威の程を後世に伝えんとするものなり。

 確かに、「(諏訪大神に)生娘を犠として奉る」と読めます。本社である諏訪大社の氏子としては「諏訪大神は“そんな”神様ではない」と反発してしまいますが、さらに「(その風習がなくなったのを残念がって)鹿を替わりとして奉る」と続きます。
 通常なら「そんな悲しいことが止んでよかったね」で終わりますから、鹿に代えたとしても、贄の供給を再開したことに奇異を感じます。これは、文字数の制約に加え「地元の人はわかっている」ことからくる説明不足と好意的に受取りましたが…。

 帰り際に、社頭にある『宮野目散策案内図』を何気なく眺めると、近くに「諏訪御前社」があります。もうここに来ることはありませんから、後悔しないようにと参拝することにしました。

葛地区 両社の位置関係を示すために、地理院『地図・空中写真閲覧サービス』からダウンロードした2011年9月撮影の写真です。
 北上川がこの辺りを迂回するように東に蛇行している中で地形図の等高線を確認すると、集落が1mほどの差ですが高地に立地していることがわかります。
 旧村の概要には「北上川は東に移った」とあるので、高低差がないこの一帯に川の名残の沼が幾つも残ったことが理解できます。

諏訪御前社

 田圃の中にポツンとある神社を目指して、農道に乗り入れました。

諏訪御前社

諏訪御前社 御前社は方形の水路で区画されています。その写真を撮る中で、『諏訪神社由緒』に載る「今もある御前池」が、神社の前にある四角い池と気が付きました。
 神社からは離れた大道の脇にある「宮野目コミュニティ会議・宮野目ふるさと会」設置の案内板です。

諏訪御前社と御前沼

この小社は、昔から人々にお諏訪さん、御前様と親われ崇敬されてきたお社である。
 諏訪神社は棟札に天文五年(一五三六)葛門(くずもん)三郎建立とあるが、修復中興か、奉斉の年代は不明である。
 往古、この葛村一帯の森と萱野と沼にかこまれた辺りに勧請され、しつらえたお諏訪さんは竜蛇信仰であると伝えられている。
 当時の諏訪神社への参道は、森の木々が鬱蒼と繁り淋しい道で子女等は参詣もままならず、そのため参道の入口に礼拝所を設けたという、これが御前社である。

伝説 御前沼

 昔、御前社の近くに、上沼、中沼、下沼の大きな三沼があり、この沼の全面積は五町歩(五万平方米)もあったと伝えられている。
 この沼には大蛇が棲み、三年に一度、若い子女を生贄として供えていた。しかし後の世になって村人はこれを憂い、鹿に祀り替え、その鹿の骨を埋めた塚が、人塚として今も社殿の裏に残っている。年を経た今は鮭などの魚を供えているという。

 初めは諏訪神社と〔諏訪御前社〕を混同して読んでいましたが、諏訪神社の参道の入口に礼拝所を設けたのが御前社と理解できました。
 次の〔伝説 御前沼〕ですが、こちらは「大蛇に、若い子女を生贄として供えて」と書いています。贄は大蛇に供したものとして(私が設定する)話のスジが通ったのですが、ここでも「村人はこれを憂い、鹿に祀り替え」と書いています。大蛇が代用食で満足したとは思えませんから、やはり、ここは、諏訪神社が一枚噛んで「こうなった」とするほうが自然です。

 諏訪御前社が参拝できたのは大変ラッキーだったと言えますが、何かスッキリしないものを抱えながらこの地を後にすることになりました。

『邦内郷村志』

 『神、人を喰う』では『邦内郷村志』を挙げています。『南部叢書』にあったので転載してみました。

葛村 ○諏訪社 昔霊験厳而世人尊祟之云。三年一度取女子犠牲。積年邑人愁之代鹿祭。夫亦不及。以雲南堀處捕之鮭代祭之。洎近世雑魚贄。

 何か「凄そう」に見えたので私流に読み下してみましたが、余り参考になりませんでした。

 昔霊験厳に而て世人之れを祟尊と云う。三年に一度女子を取り犠牲に用いる。積年邑人之れを憂い鹿に代えて祭る。夫れ又及ばず。雲南堀で捕る處の鮭に代えて之れを祭る。近世に洎(および)雑魚を以て贄と為す。

『二郡見聞私記』

 これも同書で引用している、『二郡見聞私記』にある〔諏訪のやしろ〕です。ここでは、『南部叢書 第九冊』から転載しました。

 八幡通葛村諏訪大明神の社辺は往古大萱原にて今御手洗水は其頃大沼なりとぞ。北上川光来淵より大蛇この沼へ萱原を往来男女取食う。其上田畑をあらしけるゆえ、村人歎きて三年に一度の犠牲を諾(だく)す。御当国御手に入後(?)、村人愁訴す。右光来淵より大沼へ通路を焼払うべきとあり。其上に閉伊(へい)郡小槌村諏訪大明神を沼端へ勧請あり。是より鹿を以て贄とす、夫より災なしとぞ。右鹿も相止め雲南堀の鮭を以て祭る。是も又及ばず、今雑魚を以て祭るなり。此社の後に往占の犠牲に備(供)えし男女の骨を埋めし所を骨堂とて今にあり。又鹿の骨堂もあり。大蛇小槌村より勧請し明神の御威光に恐れて光来淵にひそみ居しとぞ。

 「御当国御手」が意味不明ですが、「大蛇の通路を焼き払い、沼端に諏訪神社を勧請した」と読めます。ここでは「その時から贄を鹿に代えた」とありますから、私の素直な解釈では、諏訪大明神を恐れた大蛇は鹿肉で我慢するようになったとなります。

御頭祭
諏訪大社上社御頭祭「鹿頭の献饌」

 ただし、総本社の諏訪神社上社(現 長野県諏訪大社)では、「鹿無くては、御神事はすべからず候」が鉄則です。葛の諏訪神社でも「それ」が伝わっていたとすれば、「その時から諏訪大明神へ鹿の贄を供することになった」とするのが本来の話になります。つまり、「大蛇への人間」と「諏訪大明神への鹿」が習合(混同)して、このような伝承になったと言えます。

葛諏訪神社の本社は

 前出の〔諏訪のやしろ〕では、大蛇を鎮めるために閉伊郡小槌村から諏訪大明神を勧請したと書いています。その本社が気になって「閉伊郡小槌村」を地図で検索すると、釜石市の北にある「(旧郷社)小槌神社」が表示しました。住所は上閉伊郡大槌町です。
 次に、南部叢書刊行会『南部叢書』を眺めると、江戸時代の地誌『邦内郷村志』があります。苦労して〔閉伊郡大槌縣〕にある「小槌村」を見つけましたが、神社は「神明・小槌大明神」の二社しか載っていません。この小槌大明神が現在の小槌神社で間違いないのですが、祭神を始め諏訪色はまったくありません。

 こうなると、諏訪神社は廃絶したか、葛村へ(分祀ではなく)移転したのかのどちらかになります。もっと言えば、『二郡見聞私記』の記述が間違っていた可能性があります。ただし、あくまで「見聞」なので、どうこう言えるものではありません。

 離れた地の古い伝承に、長野県諏訪の道理でツッコミを入れた形となりましたが、どうでしょうか。