ネット検索で引っ掛かった「諏訪の穴」は、岡山県真庭市北房にある鍾乳洞とわかりました。
「諏訪とあるからには、附近に諏訪神社があるはず」と地図を広げますが、捜索範囲を広げても一向に表示しません。ようやく上諏訪神社と下諏訪神社を見つけましたが、「これは離れ過ぎ」という場所です。それでも、岡山県は長大な鍾乳洞が多くありますから、日本最長の通底伝説があってもおかしくありません。
逆探索としてこの両社を調べると、鍾乳洞に関わっているような気配はまったくありません。結局「諏訪の穴」とは無関係としましたが、社殿の後方に写っている「柱」に注目しました。私は「御柱(おんばしら)」と直感しましたが、写真を紹介しているブログには説明がありません。
「北房ほたる公園」から備中川を渡ると、正面の崖に諏訪の穴がありました。入口にある小祠が諏訪社と思われますが、案内板や社殿に「諏訪」の文字はありません。「諏訪の穴」はこの諏訪社に因んだものとしたいのですが、確定できぬまま、直線距離で5.6km離れた上諏訪神社へ向かいました。
当初はすれ違いも困難な県道84号でしたが、山間部に入ると広くなりました。地図から想像していた山の中にある小さな集落を見下ろす場所に、上諏訪神社がありました。
社号標に「村社 上諏訪神社」を確認してから拝殿へ向かいます。
玄関状の付属建物の上部左右に設置された小部屋に、色彩がかなり風化した随身像と狛犬が座っています。会釈して中に入ると、正面の鴨居に「由緒」と題した額が掛かっていました。後で紹介する『由緒』と重なるので、冒頭の部分だけを挙げてみました。
この神社を参拝する動機となった「柱」についての記述はありません。退出して奥へ向かいました。
菱模様の格子がある塀の中に、鳥居と作り付けになった玉籬があります。その内側には矢が何本も立て掛けてありました(後に「鬼打ち神事」で使われたものと判明)。
その中心に、柱が一本すっくと立っています。
その上部に三叉の槍または鉾状の金具が留めてあるのが、否応なしに目に入ってきます。柄を差し込む部分がないので、槍や鉾を象徴したものと思われます。
薙鎌(なぎがま)とはほど遠い形状ですが、長い年月の間に実用的な武具の形に変化したものとも考えられます。
隣家に人影が見えたので急いで駆けつけると、この神社の宮司宅でした。都合で夫人の話になりましたが、一番知りたかった柱についてはわからず終いでした。地元では、諏訪神社は“こういうもの”として、珍しいとか特別なものとする意識はないようでした。
帰り際に、拝殿内に掲げられた「式年本殿玉垣改築寄付者名」の最後に、「平成25年5月3日」を読みました。同じ額があるので確認すると、「平成5年5月吉日」です。これで、20年のサイクルで、柱と玉垣を建て替えていることがわかりました。
下諏訪神社は、川沿いの山手に鎮座していました。この奥に岡山県下一の巨木とある「醍醐桜」がありますが、花期が過ぎているので標識を見るだけになりました。
背後が山の斜面ですから、暗く湿気が感じられます。拝殿に上がると、透かし戸の向こうの小部屋が幣殿ということになりますから、その向こうが本殿=柱であることがよくわかります。
上諏訪神社に倣って額を見上げると、こちらは「式年遷宮寄付者」で平成5年10月吉日でした。
伸びた草を踏み倒しながら拝殿の後方へ向かいます。同じように玉垣があり、柱が屹立していました。
ところが、この神社の立地環境からか、玉垣は新しい板で補強され、柱もかなり古いもののように見えます。
直近で見ると、(薙)鎌のような金具が加わっていることに気が付きました。上諏訪神社に対してあえて異形にしたとも考えられますが、私は何の予備知識もない長野県民ですから写真で紹介することしかできません。
拝殿内で日付のある額を見直すと、最新は「平成5年」でした。これに20年を加えると平成25年になります。つまり、下諏訪神社では、柱と玉垣の建て替えをまだ行っていないことになりました。ただし、こちらは「式年遷宮」の表記ですから、上諏訪神社の「式年20年」と同列に置くことはできません。
この柱が「御柱」なのか。はたまた「おんばしら」なのか「みはしら」なのか、…このままでは帰れません。真庭市の図書館で資料を探すことにしました。
「久世エスパスランド」と名付けられた文化センターの一画に、久世(くせ)図書館がありました。時間が惜しいので、受付でキーワードを幾つか並べると、司書が勧めてくれたのは、岡山県神社庁真庭支部『真庭神社名鑑』でした。〔上諏訪神社〕から主なものを抜粋しました。
御柱の寸法は「3.64m×24.2cm」でした。
〔下諏訪神社〕から主なものを抜粋しました。
結局、「御柱」に振り仮名を付けられずに、島根県奥出雲町の諏訪神社へ向かうことになりました。