彫刻の写真を撮り直すために、日向新海三社神社を再訪しました。そのまま帰るのはもったいないので記憶の中を探ると、「南相木村の薙鎌(なぎがま)」が浮かび上がりました。ところが、予定になかったので、それを展示しているであろう史料館の場所がわかりません。看板が現れるのを期待して、その先は川上村へ抜けるという道を遡上すると、突然と言っていいタイミングで神社が現れました。
社殿の大きさから知識にあった諏訪神社と直感し、広い路側帯に車を入れて振り返ると「郷社諏訪神社」でした。降りて確認すると左は崖で、社殿背後にある案内板は、その谷底に「名勝 御三甕(おみか)の滝」があると書いています。
つまり、急峻な山腹に道を開削し、その谷側に神社を造営したという景観ですから、村社としては異例の立地となります。さらに、神社が集落の外れにあるのはよく見かけますが、その家々に背中を向けているのも何か不思議に映ります。
崖側にある境外の小道から撮った本殿は、久々に見た寄棟造に向拝付という社殿でした。自宅で調べての話ですが、日吉造(ひよしづくり)とあるので、これも「なぜ?」となりました。
神社の直下にある御三甕の滝が気になります。諏訪神社との関わりがありそうですが、釣瓶落としの日々とあって「薙鎌」を優先させました。
南相木村役場では、史料館についての応答が明解ではありません。常時閉館で予約時のみ鍵を開けるという危惧を持っていたので、少ない職員を見てしまえば、遠慮して諦めるしかありません。ところが、「県宝の薙鎌」を切り出すと、「中央公民館なら」と、私の思いに応えてくれました。
さらに、後で知った栗生川に沿う道を遡上します。窓口で問うと、「二階の図書館で展示している」と案内してくれました。文化祭の展示の一環なのかは訊き忘れましたが、それを確認し、取りあえずの目的は達せられました。
パネルにあった説明の一部です。
今まで、「南相木村の薙鎌は、諏訪神社に関係するもの」と思い込んでいました。しがし、解説を読んで、これらの奉納品は(大ざっぱな表現ですが)山岳信仰によるものと知りました。諏訪神社では神器とも呼ばれる薙鎌ですが、この地では、生活に密着した切実な思いがこもった奉納品と理解できます。
B5サイズの『南相木村誌』は三巻に別れ、紙質も良くカラーの写真や図版が豊富です。平成27年刊行とあるので、これが市町村誌の新しい流れでしょうか。その中から、〔村の中世の寺院と神社〕にある[諏訪神社]です。
ここに、現諏訪社は祝平から移転したとあります。そうなると、私には辺境の地に追い払われたように映っていましたから、諏訪神を奉祭する部族に対抗する勢力が…」と考えてしまいます。また、〔神社建築〕には「諏訪神社の建物は明治十一年に再建されたもの」とあるので、現在見る社殿は比較的新しいものと知りました。
長野県神社庁のサイトには、「諏訪社」が「字三甕2932」と「祝平2287」の二社があります。『南相木村誌』にある享和2年の『当社神名帳』には「諏訪大明神/中島和田/産土神」のみですから、神社庁の誤記と思いました。
ところが、地図で祝平を探すと「祝平諏訪社」が表示します。ストリートビューでは簡素な鳥居しか確認できませんが、宗教法人としての諏訪神社が存在することは間違いありません。移転した神社の跡に新たに同神を勧請して神社を造営することはよくあるので、同じパターンでしょうか。