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御射山大社趾 伊那市西箕輪

御射山社趾と御射山大社趾

 2012年に、南箕輪村にある『御射山社(趾)』の参拝記を書きました。今回は、その大元となる「大」を加えた「御射山大社趾」の話です。両社は共に「趾」が付く、今となっては忘却の彼方にある神社ですから、文献によって見解の差があることを承知置きください。

御射山大社(跡)を参拝 '22.6.24

 Googleマップに「御射山大社趾」が載っていますが、道路事情が不安なので、「みはらしの宿 羽広荘」の駐車場を寸借して徒歩で向かいます。林道から脇道に入り、「中央アルプスマウンテンバイクトレイル」とあるバイク道を突っ切ると、林の奥に石祠が望めました。

御射山大社

 近づくと、『古跡 御射山大社』とある案内碑があります。文字に見入ると蚊が寄ってくるので、「自宅でゆっくり」とカメラに記録しました。

御射山大社 拝礼を済ませてから祠の裏に廻ると、「平成五年五月鎮座」に、建立者名が並記してあります。
 自宅に戻ってからの話ですが、案内碑の末尾にある「平成五年(西暦一九九三)古伝記並び諏訪大社伝記に基き、世界平和を祈願し、後世の為に大社を再度茲(ここ)に祀る」を読んで、祠の建立者が案内碑も設置したことがわかりました。

御射山大社趾 祠が存在していても、あくまで御射山大社「趾」です。それでも「何かの痕跡が残っているのでは」と見回せば、写真では判別しにくいですが、「手前から祠に向かっている数個の石の配列」が確認できました。もちろん、いつの時代のものかは知る由もありません。
 何しろ薄暗く湿気がある林間に加え、「隙あらば」と蚊が狙っています。実体が無いが故に想像力が高まる御射山大社ですが、早々に退散しました。

御射山大社趾 その道中で振り返ると、当時のものらしき二つの壇が確認できました。『長野県町村誌』では「出役仮屋の土手形等、道の左右に残りて今尚歴然たり」と書いていますが、果たして…。

 実際に現地を目にしてみれば、結構な山中ですから、「御射山大社があった」と言うより御射山祭の「御狩場」と見た方が自然と思われました。

東箕輪村・西箕輪村・中箕輪村・南箕輪村

 『長野県町村誌』を読むと、明治初期の旧村「◯箕輪村」が入り乱れています。自分自身でも判別できていないので、現在の自治体境界図を作ってみました。

御射山大社地図
『地理院地図Vector』(境界・河川のみの表示に名称を加えたもの)

 次に、上図の市町村の変遷(合併)を、ここに関係する村のみに絞って調べてみました。

西箕輪村+伊那村→伊那市
東箕輪村+中箕輪村→箕輪町
南箕輪村→南箕輪村……うーん、ややこしい。

異なる「御射山大社」

 ネットで収集した資史料を読むと、旧村や現在の市町村によって御射山大社の“解釈”が異なっています。抜粋したものを以下に並べたので、(よろしければ)その違いを楽しんでください。

 長野県『長野県町村誌』『東箕輪村』〔社〕

【御射山社】村社 (中略) 本村の内南小河内の東北にあり。祭神大己貴命・健御名方命。祭日七月二十二日。往古御射山平にあり。天和二年今の地に移す。

 長野県『長野県町村誌』『西箕輪村』〔古跡〕

【御射山大社跡】 村の西の方字(あざ)御射山平に、往昔御射山の大社跡あり。東西凡(およそ)三町二十間・南北凡五十間、現今民有に属し、半ば私林半ば民有山。字(あざ)藏鹿山内右地続、字神護平と唱う地有り。故に別当寺跡といえり。又字鎮守というあり。元仲仙寺(ちゅうせんじ)々領、今官有林。

 古伝記に神主唐澤備前・宮島津守なり。唐澤備前は当村與(※与)地住居。当時東箕輪村三日町旧神官唐澤備前なりと云う。宮島津守は南箕輪村澤尻に住居すと云。往古退転す。年号干支不詳。又別当神護山藤寶寺なり。天文十三年武田信玄の兵火に係り、燒失すと雖(いえど)も、実に伊那郡之大社なりと古記にあり。宝鏡は如何なりしや不詳。古伝記左(※ここでは下)に、
 抑(そもそも)当社の由来を尋るに、伊那郡大山田之神社と申奉りて、人皇十二代景行天皇元辛未年、蕗原の庄箕輪郷羽広の里に鎭座在し、則(すなわち)御射山大明神と崇(あがめ)奉る。御本地福一滿(ふくいちまん)虚空藏大菩薩と称し奉る。宝鏡は神主唐澤備前代々守り奉る。宝鏡の裏に神亀元甲子年とあり。同四十六代聖武天皇の御宸筆(しんぴつ)なりと言伝う。元慶三年飯田の城主摂津守左右衛門入道再建有て代々御神楽あり。又騎馬を献ず。
 夫(それ)より四百二十年を経て、元暦二年(1184)吉田家より御射山大明神の送号有り。則神祗正金陳卿の御筆也という。又百四十年を経て、応安元年(1368)福與(ふくよ)の城主井上三郎滿實・井上左衛門尉・藤澤義親・藤澤行親等代々大祭有て御神楽を献ず。又神輿・騎馬等を献ず。其後百五十九年を経て、享祿元年(1528)箕輪左衛門尉、上棚へ御射山の御宮を移す。是よりして祭礼の事絶たり。
 箕輪左衛門尉は天文十二年(1544)、甲斐信玄の為に亡ぶ。借むべし。星霜捍移りて今は其跡而已(のみ)残りぬ。往昔健御名方命御狩の時、大鳥羽を打て東を指して飛び、命遙に見給い、羽広し広しと称し給いしより羽広村と名附し。
 同村今柴宮と称し奉るは、命御狩の時、柴を以て仮屋を造らせ給いし旧跡にして、本宮は御射山平なり。今は諸木生繁りて名のみとなりぬ。されども往昔祭礼之刻、出役仮屋の土手形等、道の左右に残りて今尚歴然たり。
 前宮も崩れて落しを、其後僅(わずか)かに修復を加、今御射山大明神と称し奉りしなり。
 享祿元年まで代々の城主騎馬を出し、神主神輿を持出したる所を御輿場と号す。今神子柴村是なり。同村地内に一の花表(※鳥居)有りしか星移り霜代りて、何日となく朽果、今は礎(いしずえ)而已(のみ)残りぬ。其地を鳥居原と号す。
 是より本社まで五十町余あり。祭礼の刻は御輿原中に御休み有し所を三本木と名附て、今尚木三本あり。本社の鳥居は蔵鹿山の入口今富士塚の南にありしが、是何年月経るに従いて朽落、唯(ただ)其礎而已千歳に朽ず。又神田・神畑有て御供米或は神馬の料に献ぜし地を田畑村と号す。
 祭礼中城主休泊有之地を殿村と号し、各(おのおの)尚今連綿たり。御射山大明神は伊那郡一の旧蹟、七月二十七日御狩日なれば、夫(その)神は神変不思儀之神通力を以て、彼地に在して此地を守らせ給えば、今其旧地を尊み、参詣する輩に於ては志願虚からず。天下泰平・国土安穏・五穀成就・家内繁昌・息災延命疑べからず。

村絵図 明治9年6月作図とある、長野県立歴史館蔵『信濃国伊那郡西箕輪村 図面』の一部です。「御射山社」があったので載せてみました。
 御射山社を挟んで、右上に「羽広耕地」、左下に「与地耕地」が書かれています。

 長野県『長野県町村誌』『南箕輪村』〔古跡〕

【御射山社の趾】 東西二百間・南北百八十間、面積一町二反歩の原野にして、本村の内神子柴耕地の正面にあり、前原と称す。祀るに健御名方命・八坂刀売命の二神なり。
 大同四年巳丑年坂上田村丸勅を奉じて創立し、後屡(しばしば)奉幣あり。大山田の神社 式内社 と称し、穂屋の大祭を執行すと 神官宮島某たり、天正間故有りて土人の為に族滅せらると云う 。七月二十七日御射山平に御輿を移す 今の御射山平なり、御輿を神子柴より出す 
 又別当あり。養麻山普光寺と称し、十二坊を設く。実に本郡の大社たりしに、偶(たまたま)兵火に罹り社頭僅に存す 寺坊兵火の後、西箕輪村羽広耕地に移り、復び兵火に罹ると云う 。神宇漸(ようや)く造営すと雖も又往日の盛なるが如くならず。
 天正十三乙酉年大地震に会し、殿宇悉く破壊し、還(ま)た成らず。遂に各所に祀る。惜(しき)哉、旧姿此に湮没(いんぼつ※跡形もなくなる)す。
 本村の内、里宮社・前宮鳥居原社等あり (ただ)前宮の趾跡を残し、所在に鳥居の残礎を存し 方三間あり 字御射山平・鳥居平・前宮原等の原野あり。又字三本木原は老松三樹、塊として高く、雲表に秀でて、周囲数尋 今其形を遺し、址跡を存すのみ 、此樹下に神輿を休(いこ)う所とすと。
 其佗(そのた)流鏑馬所・神戸 今西箕輪村に属し上戸と云、神を上に誤るなり ・御舞瀬 今伊那村に属す、方言にミマイデと云う あり。カンナギ八乙女を出せし所なりと。
以上に挙げた『長野県町村誌』の評価(正確さ)については各論があります。

 箕輪誌編纂委員会『箕輪町誌 歴史編』〔諏訪信仰と御射山祭〕

三日町の御射山三社
(前略) しかしながら、付近に残っている遺跡や地形・地名などから御射山大社は往昔与地付近(現在の伊那市西箕輪)にあり、いつの時代かそれが御射山三社として三日町に遷座されたという伝承は確かであろう。(中略) 御射山三社は、隔絶した境内にそれぞれ本殿があり、総括的な名称である。御府(みふ)社は古くは神符社と書かれた。(御符社の)前身は与地に創立の「御射山大社」である

 南箕輪の史跡の話編纂委員会『南箕輪の史跡の話』〔神子柴〕

御射山社(御射山社鳥居跡)
(前略) 御射山社については、『蕗原拾葉ひとつばなし』・『伊那志略』や『長野県町村誌』の南箕輪村・西箕輪村の項等多くの古書に書かれてはいますが、御射山社の歴史は大変古い上に、旧御射山祭が行われなくなった後に書かれた記録のみで、はっきりしない事ばかりです。
 西山には「御射山」という山があり、地元の人々によると、字御射山平には御射山社や御射山社の別当寺があったといいます。西箕輪の書物『我が郷土』や『西箕輪誌』によれば、最初の御射山社は与地にあって、それを羽広へ移したと記されています。また、明治の初めまでは第二の烏居があり、第一の烏居は神子柴の烏居原にあったと記されています。
 このような事を合わせて考えると、神子柴の石碑には「御射山社」と刻まれてはいますが、ここに御射山社の本社があったとは考えにくいのです。神子柴に御射山社があったというには裏付けがなさ過ぎますし、「神輿場」の名の起こりも御輿を出した村ということで、西箕輪に本社(※御射山大社趾)があったとするのが自然です。(後略)