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知久平諏訪神社 飯田市下久堅知久平 1.5.18

 「知久平御射山社」は、分離して別ページとしました。

知久平諏訪神社参拝 1.5.8

 駐車場が見つからないので、「下久堅自治振興センター」をお借りしました。徒歩で向かうと、やや奥まった場所にある知久平諏訪神社の側方に出ました。

知久平諏訪神社 表参道から退出するという恰好で、正面に小学校が見える一ノ鳥居へ向かいます。
 気持ちを新たにして鳥居をくぐり直せば、五月の影が長く延び、知久平諏訪神社がシルエットになっていました。改めて、その境内に向かいます。

知久平諏訪神社本殿
二之柱一之柱

 この諏訪神社には、拝殿脇に二本の御柱がありました。

知久平諏訪神社拝殿 拝殿の左右奥に花火の手筒が見えます。南信州は手筒花火が盛んですが、奉納されたものが今も使われているのかはわかりません。
 拝殿を仰ぐと、掲額が「諏方三社」です。社号標は「郷社諏訪社」でしたから、三社が並んでいるのかと拝殿の奥を注視しました。

知久平諏訪神社本殿 しかし、本殿は一棟です。定紋幕はしっかり諏訪梶を染めていますから、諏訪神社で間違いありません。かつてそういう時代があったのだと納得させて、帰途につきました。
 振興センターは地区図書館を併設しているので、帰りに寄ってその謎を解こうとしました。しかし、今日は昼食抜きで駆け回っていましたから「早く帰ってビール」が頭の大部分を占めています。忘れて、そのまま帰ってしまいました。

知久平諏訪神社について

知久平諏訪神社「諏方三社」 暗い本殿を明るくレタッチする中で、内陣の柱から屋根の一部が覗いていることに気が付きました。改めて格子を透かすと、本殿の半分程度と思われる社殿が左右に確認できます。定紋幕も同じ諏訪梶ですから、かつての村内に散在していた諏訪社を一堂に会したものと考えました。

諏訪神社蟇股鷹に梶 本殿向拝柱の貫に蟇股の一部が写っています。拡大すると、蟇股ではなく、「枝に留まっている鳥」の透かし彫りと確認できました。不鮮明ですが、国重文の古城八幡神社や大山田神社の諏訪社に見られるものと似ていますから、「鷹に梶」としました。室町時代からの流れを残している社殿かもしれません。

 ここでも、地図に諏訪神社と御射山社の位置関係を挙げてみました。
 何か遠くにあったような気がしましたが、直線距離で約1Kmです。今は学校で分断していますが、諏訪神社前から御射山社まで続く道が、かつての幹線道路(秋葉道)だったように見えます。

改めて知久平諏訪神社

 ネットの情報では、知久平諏訪神社の御柱祭は盛大に行われ、諏訪大社から薙鎌も拝領されることを知りました。知久平諏訪神社への興味は尽きませんが、諏訪ではこれ以上の情報は得られません。

 ところが、『すわズラ〜』で検索すると、諏訪市図書館に『下久堅村誌』がありました。さっそく借りたのは言うまでもありません。

2、知久平諏訪社 (抜粋)
 知久平諏訪社は知久氏が鎌倉時代この地に来住すると一緒に諏訪上社を勧請したのだといわれている(市村成人氏著「知久平城址」)諏訪神を中心に八幡宮・山の神を配祀している
 境内には大神宮・社宮司・天伯・稲荷・天伯二社・子安・若宮・根渡・(所政)・拍子(拍手)・穂俣・溝(溝上)・若御子・荒玉・玉尾・磯並・久須井・前宮・千野河・藤嶋・若宮などがあって、その数は本宮と同じであるといわれる。
 所社から千野河社までは延享元年の「社寺改帳」にはすでに「宮零落仕(つかまつり)がく(額)板斗(ばかり)御座候」とあって神祠はなかったのである。
 神主家には上祝・下祝があって諏訪社の大祝の分家であるといわれ、神社の下方に斎田があり、「おみおくだ」の地名も残っている。
下久堅村誌編纂委員会『下久堅村誌』〔寺社・寺子屋その他〕

「諏方三社」

知久平諏訪神社本殿
山の神諏訪社八幡宮

諏訪梶 「諏訪神を中心に八幡宮・山の神を配祀している」を読んで、諏方三社がこれなのかと納得できました。しかし、左右の社殿の定紋幕も諏訪梶です。三社間で合意ができているとは考えられませんから、物言わぬ神に善意の押し着せをしているように見えてしまいます。

「所社から千野河社まで」 諏訪大社上社の神宮寺は明治初頭に破却され、今ではその存在を偲ぶことさえできません。そこにそびえていた五重塔を寄進したのが知久氏です。それで「あの知久氏」と書いたのですが、その篤い信仰心を思えば、本社の十三所を知久平諏訪神社に完全コピーしたのも「もっともだ」と納得できました。