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遠野の諏訪神社と石神 岩手県遠野市松崎町

 目的は人身御供(生贄)伝承がある花巻市の諏訪神社ですが、「そこに至る前に一社を」と欲張ったのが、遠野の諏訪神社でした。

 遠野の諏訪神社参拝 '22.10.25

 二度目となる遠野市へは、東北自動車道→釜石自動車道→遠野バイパスと西側から入ったので、旧市街には立ち寄らないままで終わりました。心残りがありますが、深入りすると、自宅に帰ることができなくなります。

遠野市

 諏訪神社前から眺めた、朝8時の遠野市街地です。時折雲間から陽が射すという今日の天候ですから、気温2度にまだ順応できていない体が震えました。

諏訪神社[遠野遺産 第102号]

■ 【遠野遺産】「これまで遠野の人々が大切にしてきた『たからもの』のこと。たとえば次のようなものが、遠野遺産候補として考えられます。(中略) これら遠野のたからものを、市民と行政とが協力して保護・活用し、次世代の子どもたちに伝えていく仕組みが『遠野遺産認定制度』なのです」(岩手県遠野市公式ウェブサイト『遠野市』から)
遠野諏訪神社
遠野諏訪神社

遠野諏訪神社本殿 民家の脇を通る道のどん詰まりが、遠野市では(地図上では)一社だけという諏訪神社でした。
 「遠野」のイメージというかブランドに期待してしまったのですが、その前に立てば普通の神社でした。

 遠野市が設置した、『諏訪神社』の案内板です。

 この神社は、昔この地を治めた阿曽沼親郷(あそぬまちかさと)が勧請したものといわれ、長野県の諏訪大社の祭神・建御名方命を祀る。
 承久三年(1221) 阿曽沼親郷が軍務のために信濃国に出陣した時、諏訪湖のほとりに宿をとった夜に、諏訪大社の神の夢告(むこく)によりヘビの妖怪を退治して神剣を賜った。帰国後、横田城の南にお堂を建立して諏訪大社の神を祀ったのが始まりと伝えられている。
 言い伝えによれば、この神剣を紛失したり、猿ヶ石川の水が赤変すると阿曽沼家に不吉な事がある前兆とされ、横田城を今の鍋倉山に移す時も猿ヶ石川の水が赤くにごり、神剣も紛失したというので重臣達がことごとく反対したが、移城を強行し、間もなく阿曽沼家は滅亡したと伝えられている。天正年間(1573〜1592)の事である。
 境内のカエデの数株は、諏訪大社から移植したものといわれる。秋の紅葉は、遠野随一とうたわれ近郊の人たちでにぎわったと伝えられる。 (後略)

 「承久」は、今年一年間に諏訪を含め全国的に活躍した元号となりました。その時代とはいえ、私には「諏訪大社」と「諏訪でヘビの妖怪を退治」とあるのが何とも引っかかります。「これが遠野なのだ!!」と同意してみましたが…。

石神(乳神)[遠野遺産 第102号]

 本殿の前に「石神」があります。諏訪から来た者としてはこれを「しゃくじ・しゃぐじ」と読みたいのですが、素直に「せきじん・いしがみ」でしょうか。 朽ちた案内柱は「石神(乳神)」なので、岩手県に多く見られる乳神信仰の一つとしか言えません。

諏訪神社

 下調べの写真では、乳房を模(かたど)ったものが掛かっていました。「如何にも遠野」という光景を実見したいと思っていましたが、今日は注連縄のみでした。ここでは、その画像をストリートビューで用意しました。日付から、今年の3月まではあったことになります。
 別の場所にあった案内板です。

 神社左手にある石碑は乳神(ちちがみ)信仰の願かけ石で、母乳のでない女性がこの石の苔をとって煎じて飲んだといわれている。

清心尼公の墓[遠野遺産 第86号]

諏訪神社 右方の林間に案内板らしきものが見えます。
 下壇から回りこんで現れた標柱「光興寺跡 北隣火葬場」を読めば、思わず足下に目が行きます。現在地の方位を記憶にある地図に重ねそうになるのを追い払いました。
 案内板は、遠野遺産に載る「清心尼公の墓」でした。遠野市・遠野市観光協会・遠野ライオンズクラブが設置した案内板です。

 遠野南部㐧二十一代の領主、清心尼公は八戸南部㐧二十代直政の夫人で二十九才で未亡人となり、剃髪して仏門に入り清心尼と称した。嗣子がなかったので封建時代には異例の”女の殿様”が誕生した。寛永四年(1627)八戸から遠野への転領にあたっては養子直栄なおよし 㐧二十二代)を補佐して遠野郷の統治につとめ、遠野南部氏二百五十年の基礎を築いた女傑で、正保元年(1644)六月四日、五十九才で没した。この墓は菩提寺の大慈寺が廃されたとき現在の場所に残された

 光興寺跡と大慈寺の違いに戸惑いましたが、間断なく吹く風が身に染み、早々に立ち去りました。