『大祝職位事書』から、文明16年(1484)〔諏方宮法師丸立給次第〕を転載しました。磯並四社の部分です。
一、いそならべ(磯並)大明神へ御社参有而、大祝殿に神長御幣・御手楽もたせ申、神長十三所行即位法授職大法のっと(祝言)、さて御へい・御てぐら神長給て神前へ献、御手はらわせ申、さて北方小袋石御前にて御手くら法言御進上、御左口神前にて御手くらを給也、法言如例ありて南方に順々御帰御候、
一、玉尾大明神御社参有、
一、穂俣大明神へ御参ありて御へい、
一、瀬大明神御参有
ここに、御左口神が登場します。「小袋石にミシャグジなどあったっけ」との反応も、『上社古図』に無名の社殿が描かれていることを思い起こせば、「それが御左口神か」と納得できます。
『上社古図』では、本宮・前宮・磯並山・御射山の四箇所に、五間廊が連結した帝屋(みかどや)が見られます。何れも「宝殿・前宮社・磯並社・大四御庵」が右上に描かれていることから、その社殿に付帯しているのが帝屋ということになります。因みに、拝殿と違い、(絵図では斜めですが)横向きに建てられて(描かれて)います。
左図は、『上社古図』から磯並山の部分をカットしたものです。前述の法則に倣って帝屋から右上にライン(---)を引くと、並んだ社殿の右上に磯並が読めます。
鳥居の位置からも、前宮に次ぐNo.3の磯並社への参拝線として妥当なものですが、どちらが磯並社なのか決めかねます。同じ絵図の前宮では前宮社の左が御左口神なので、右が磯並社で左側が御左口神とすることができます。
この絵図の正確性は別として、『大祝職位事書』に出る「北方小袋石」から「南方に順々」のコースを左回りとすれば、「磯並社→小袋石→御左口神→玉尾社…」と無理なく巡拝順が一致します。そのため、声を大にすることにはためらいがありますが、普通に「左の社殿が御左口神だ」としました。
絵図にある「日月神」は『上社古図』のみの存在ですが、御左口神は、前記の文献からも存在していたことがわかります。しかし、現在は痕跡も無いので、前宮の御左口神と同時期に退転したと思われます。
(平易に書くと…)戦国時代は幕を下ろしましたが、諏訪神社を取り巻く状況は大きく変わりました。上社は、これまでは「諏訪氏(または神氏)の氏神社」として厳格に管理されてきましたが、すでに神事を行うことさえ難しくなっています。
そのタイミングで本宮に今見るような幣拝殿を造営し、誰もが神前で参拝できる開かれた神社──諏訪の産土社として出発したと考えれば、(たくさんの語句を並べなくても)なぜ幣拝殿が上壇に移ったのかの説明ができます。
一方の前宮は、御室神事が退転し神殿(ごうどの)も移転したので、御左口神が居(斎)つく環境ではなくなりました。苦肉の策として、神長官が自宅に引き取り、(通称としての)御頭御社宮司総社として再興させたと考えることができます。
廻湛が廃れれば、その流れを引いて(継いで)御頭御社宮司総社から分祀した御左口神(みさくじ)が、村代神主の流れを汲む郷から各村へ、さらに巻などの祝神へと“野に放たれていった”とすることができます。これが、江戸時代以降の御左口神(ミシャグジ)ということになります。
実はまだイメージの段階でしかなかったのですが、順に文字に代えてみると、なかなかいい話と自賛できます。この流れでは、諏訪のミシャグジと郡外のミシャグジとは一線を画すべきとなります。やはり、「諏訪のミシャグジは諏訪独自のもの」と考えた方が無理がありません。