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土石流で埋まった境内(境内傾斜の謎) '11.4.20

南参道の坂 御頭祭で、本宮から前宮へ向かう遷座の行列です。
 の道路標示が最鞍部ですから、最後尾の神輿がいる二之鳥居前にかけては「かなりの上り坂」であることがわかります。


勅使殿と五間廊 代わって、本宮の境内です。傾斜がよくわかるので勅使殿と五間廊の写真を用意しました。
 ここには写っていませんが、左方の二之鳥居を頂点として神楽殿前までが坂になっています。

 ここまでを要約すれば、(写真と言葉で説明したものが一切無駄となった気がする)「天井川の御手洗川を頂点にして、南参道側と境内の土地が下がっている」となります。

 この地形は、「御手洗川の氾濫による土石流堆積」で形成されたのは間違いありません。今も長雨が続くと、出早社(いずはやしゃ)左側の斜面から天井川となった御手洗川の“伏流水”が沁み出てきます。
 ところが、機会ある毎に古文献を読みますが、「台風で境内の木が根返った」ことはあっても、「土石流で埋まった」記述を見つけることができません。文献に残らない鎌倉時代以前に、今見ている地形が形成されたのでしょうか。

『上社古図』に見る境内地

 江戸初期の作と伝わる『上社古図』で「二之鳥居」の周辺を見ると、南参道と本宮境内には高低差がありません。絵図ということもありますが、御手洗川を渡って鳥居をくぐると、石垣上にある布橋へは「橋で上がる」ことになります。

石車橋
神長官守矢史料館蔵『復原模写版上社古図』

 橋を拡大すると「石車橋」と書かれていますが、下に「今ナシ」が見られます。本来の「今ナシ」は「現在は存在していない」という附箋ですが、この絵図は模写なので直に書き入れています。
 そのため、当時は「橋で布橋へ上がった」ことになります。因みに、現在見る入口御門は幕末に新造されたものです。

 諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史』から、〔諏訪神社上社境内遺跡−中段の調査−〕の一部を転載しました。

 布橋の下は石垣状の築堤であったとみられる。積石が一部露出したが、全面的に発掘できないので推定のみである。

駒形屋の古石垣

 前出の『上社古図』では「御厩」に相当する「駒形屋」を、私が堆積物とする傾斜地を前景にして撮ってみました。

「駒形屋」本宮境内 写真では一目瞭然とはなりませんが、現地に立つと「土砂で埋まって高くなった」ことが自然に理解できます。
 社殿の向こう側になる玉垣の際(きわ)に大木がありますが、なぜか太い根が地上に大きく現れています。普通なら単なる「根上がり」で片付けますが、この場所では「太枝の下まで埋まったために、枝が根に変わった」と考えてしまいます。

駒形屋の石垣 駒形屋に近寄ると、石垣が二重構造です。下壇は見るからに古いものですから、複数回の堆積によって嵩上げしたとしか見えません。


「流鏑馬馬場」

 境内と同じ高低が、玉垣に接した「宮下道」にも見られます。

馬場跡

 ここで流鏑馬が行われたとする話があります。しかし、この高低差では馬場として成立しませんから、流鏑馬神事が盛んに行われた頃は、まだ平地だったことが想像できます。

「新河ヨケ」

 「たくろ」さんこと郷土史家の原直正さんから、「土石流堆積の参考になるかどうか」とメールが来ました。

『満実書留』の文明3年正月17日の条に夢のなかの話として
大宮御正面内新河ヨケ有内鳥居立申候所也、出家来念仏、正面東内ニテ申後法華ノ大事卅二道ト云リ、又余之出家御正面ヨリ出来給候、
と、御正面の位置と地形の考察にかかわる「川除」の存在がみえています。

 私も『満実書留』には目を通していましたが、「川除」の意味がわからなかったので放置していました。そこへこのメールですから、『諏訪史料叢書』にあるその全文を読み直し、「川除」の意味も調べてみました。

 川除けとは、堤防を堅固にし川浚えをすることをいうが、堤防そのものをいうこともあった。
茅野市『茅野市史』

 1471年に書かれた条は「夢の中の話」なのでどう捉えてよいのかわかりませんが、「御正面」は今で言う「神居」ですから、その中の「内鳥居が立つ場所」に「新しい堤防がある」となります。これは「御手洗川の氾濫で土砂が流れ込んだので、新しい堤防を造った」と解釈できるので、「御正面の中にある御座石や蛙石の所在が不明なのは、土砂に埋まったため」と理屈に合います。

 参考までに、後半の「出家来念仏…」にふりがなを加えたものを載せてみました。

出家(※僧)来て、念仏正面東内にて申した後、法華の大事卅二道(※三十二相)と云り、又余之出家御正面より出来給候(たまいそうろう)、御年は四十斗(ばかり)に見させ給いけり、

「御たらし澤出て…」

 「たくろ」さんから、「追伸」が来ました。

満実書留の延徳4年3月1日に、難解で解読不明ですが、
「御手洗川の沢が出早を押し二の御柱が丑寅の方向へ動いた」ともうけとれるような記述もありました。

 元号がわかっているので楽です。図書館で該当する延徳4年の項を開くと「神使御頭足」の記録でした。

一、此三月一日かのとの未さたむ卯剋(刻)、御たらし澤出て出早良(雄)を押、二御柱丑寅辷給(すべりたまう)

 「かのとの未さたむ」は干支の「辛(かのと)の未(ひつじ)定む」と読めますが、意味が通りません。棚上げとましたが、一晩寝たことで雑念がリセットできたのか、を付けてもらえるかはわかりませんが)「かのとの未さたむ」は「彼時未定」で、「氾濫した時間(彼時)はハッキリとしないが(未定)」と解釈できました。

出早社(出早宮)
出早社二之御柱 

 これで、卯の刻は「朝5時から7時」なので、「朝6時頃に御手洗川が出水して、出早社を押し流した」と読めます。
 「二御柱」は「二之御柱と三之御柱」とも取れますが、「二之御柱が辷(滑)った」から、「倒れずにそのまま東北に流された」と解釈してみました。これは「地盤ごと動いた」ことになるので、この時代でも、かつて堆積した土砂の上に御柱が建っていた可能性があります。
 この「御たらし澤出て…」が「境内傾斜の要因」なのかは断定できませんが、古文献からは当てはまります。

 「延徳4年・西暦1492年」と言っても雲をつかむような時代ですから、調べて、「延徳2年に第8代将軍足利義政が死んだ」を挙げました。