諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社雑学メニュー /

「布橋」諏訪大社本宮の長廊

 元旦「蛙狩神事」の一カットです。布橋を、先導の神職の後に初贄を捧持した神職が続きます。

「布橋」蛙狩り
'08.1.1

 布橋は、どう見ても橋と言うより長い廊下です。公称は「67m」ですが、「本当だろうか」と測ってみました。巻尺がないので、柱間を1.8m(一間)と確認してから柱の間を数えました。1.8×37で66.6mでした。

なぜ「布」橋

 この屋根付き板敷き通路は「明治以前は大祝のみが歩行を許され、彼が通るときには布を敷いた」と、各書は“字裏”を合わせたかのように布橋の由来を説明しています。

布橋
秋里籬島編『木曽路名所図会 巻之四』(部分)

 ところが、江戸時代前期とされる『諏訪社遊楽図屏風』や、文化二年に上梓された『木曽路名所圖會(図会)』では、布橋を市井の人が歩いている様子が描かれています。
 大祝専用だったら、改めて布を敷く理由がありません。かなりの昔から一般通行可で、国賓の送迎時に赤絨毯を敷くように、大祝が通る場合に限って白布を敷いたと考えてみました。

なぜ布「橋」

 名前の由来は別として、なぜ「橋」なのでしょうか。

布橋
「御頭祭」前宮から本宮へ帰着

 側面を見ると、基礎石ではなく桁の上に柱が建てられています。しかし、桁は地面と接していますから、とても橋とは言えません。ところが、上写真のように地形の傾斜から徐々にその桁下に隙間が空くと、間に礎石が入るようになります。こうなると「橋桁」で、「陸橋」とも言える状態になります。

「布橋」の古態

 中世の文献には、大意ですが「前宮の神殿(ごうどの)から来た大祝は、今の神楽殿がある下壇から宝殿を参拝した」「下壇が洪水で冠水したときは、中壇の『千度大内(大路)』から参拝した」と書いてあります。このことから、研究者は、今の布橋の通路は「かつては千度参りをする道であった」としています。

二つの「布橋」

 諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項 諏訪市中洲編』を拾い読みしていると、「布橋」の項に以下の文がありました。

(現在の)「布橋」は、古図では千度参りをする道「千度大内」と書かれている。一方、塀(現在の玉垣)の内側にある廻廊が布橋となっている。移転したか誤称ではないか。

 文中の「古図」は『上社古図』で、赤枠が「移転か誤称」とある千度大内と布橋です。

上社古図
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』(部分)

 確かに、布橋には「千度大内四十五間」と書いてあります。一方の「布橋二間百二十間」は「今ナシ」と但し書きがあるで、この古図が描かれた時代には、すでに存在していないことがわかります。

千度大内

 『大祝本社例記』は延宝七年(1679)に幕府に提出した調査書なので、諏訪神社上社の“公式見解”とも言えます。これに「千度大内 四十五間」と書いてあり、退転の項に「布橋 二間百二十間」とあるので、まさに『上社古図』の通りです。330年前でも現在の「布橋」を「千度大内」と呼び、(ややこしいのですが)布橋は消滅したことになっています。
 「天正十年・神長官信真」の奥書がある『守矢頼真願文』があります。信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』から抜き書きしました。

其上放火信長御罰之旨申上、無程御神前再興、…大門・千度大会廊・神事屋・舞台…

 「織田信長に焼き払われた諏訪神社上社を再興したい」という、徳川家康に宛てた(できれば援助して欲しい、とも読める)“決意表明書”です。ここに「千度大内廻廊」が見えるので、その存在は今から430年前に当たる天正10年(1582)以前にまでさかのぼることができます。

布橋は通称で、正しくは「千度大内」

 長野県教育委員会『諏訪信仰習俗』で、上社の宝殿遷座祭について幾つかの文献を紹介しています。その中から「布」に関する部分を転載しました。

十三所加持を修し、又廊下の通行人を払い、新菰(コモ)の上に布を敷宣(もう)す。午の上刻神輿移し、前後六人して柄を舁(かつ)ぎ、その後に立烏帽子山鳩色の狩衣に紫の指貫(さしぬき※袴の一種)を穿ち金襴の千早を懸けた大祝が供奉する。

 これは『元禄五年留書(1692年)』の一部ですが、ここに「通行人を払い」とあるので、この時代では神事の直前まで一般の通行があったことが窺えます。また「布を敷く──神輿移し──その後に大祝が供奉」から、布を敷くのは「神輿を遷座するため」で「大祝は神輿の付き添い」とわかります。

神輿を遷座する時に布を敷く

 同書の〔御柱祭の諸行事〕から抜粋しました。

布橋上の布単
 御神輿遷座の御道筋は東西両宝殿の前を南北に貫く四十八間の長廊であって、通称これを布橋と呼んでいる
 古くはこの長廊は大祝専用の廊であり、五官以下は更に下段神楽殿前を通行するのを例としていた。遷宮に際し布単を敷くと共にその下部に氏子崇敬者がそれぞれ自家で調製した各種の布を持参してその布単下に敷きつめたので長廊が布橋と呼ばれるようになった
 丹精こめて調製した布を各自持参して布単の下部に敷き神輿の通過後に再び戴いて帰るを常としていたが、近来は殆ど行われていない。

 ここでも「大祝専用の廊」としていますが、それは無視して、マーキングした文言が、“正しい布橋の由来”としていいでしょう。

宝殿遷座祭
「御神宝奉遷」両宝殿の通路に布を敷く

 次は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』です。ここにある『諏訪神社祭典古式』では「左右宝殿の間の路地に布を敷く」とあり、「内務省令の神社祭式により…」とある『次第』には「新殿の間路地に絹垣を張り新薦を敷く。遷座の時に臨みて布を敷く」と書いています。

布橋
「御神輿遷座」最後尾が宮司

 「宝殿遷座祭」では、両宝殿の間に敷かれた布単(白布)は、神輿が遷座すると直ちに巻き取られます。
 その後に供奉するのが(現在の大祝といえる)諏訪大社宮司ですから、繰り返しになりますが「神輿の遷座時に布を敷く」のであって、「大祝が通るためではない」ことがわかります。

布橋−入口御門−南鳥居−三ノ鳥居ライン

諏訪大社本宮布橋(出口側) 布橋は、東・西宝殿を結ぶ横軸と平行ではありません。この写真(出口側)ではわかりませんが、入口側(奥)が、若干右に寄っています。
 「もう少しキチッと造ったら」との不満がありますが、私の性格を諏訪大社に押しつけることはできません。

布橋と入口御門 布橋の中央に立って入口側を撮った写真です。布橋を基準にすれば、南鳥居(二ノ鳥居)が右へずれているのがわかります。
 布橋を一間分取り除いて建てたという入口御門も、布橋と鳥居のズレを補正する(ズレを目立たなくする)ためか、少し右に向いています。

諏訪大社三ノ鳥居を望む 階段(きざはし)の中央から三ノ鳥居を眺めると、中を取り持つ参道も右にズレています。
 ここまで挙げてきた“ズレ”は、神社によくある「見通せなくする構造」と思われます。また、平地が少ないという造営当時の地形による制約も絡んでいるので、◯◯ラインなどと大げさに検証するのは意味が無さそうです。