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昭和初期の前宮

前宮と神原跡
金毘羅神社から眺めた「現在の前宮」

 前宮へ続く坂道から、スティックを担いだお年寄りが三々五々下って来ます。本殿の上にあるゲートボール場で思いっきり楽しんだのでしょう。何れも和やかに談笑していますから、私の話に乗ってもらえそうです。
 実は「現在の本殿が建てられた昭和7年以前の景観」を尋ねようとしたのですが、近づくまでの間に「記憶が残っている年齢を10才と仮定すれば対象年齢は80過ぎになる」とわかり、すれ違うだけとなりました。

 仕方なく、図書館で関連する本を拾い読みしました。それらの微妙な表現を総合すると、…やっぱり微妙なまとめとなりました。

 古くは八段ある最上部に神陵(古墳)があった。その下にある「御霊位磐」と呼ばれる平らな石の上で、大祝が30日の精進を行った。その後、雨風をしのぐためか、茅葺きで屋根に千木がある切妻造りの仮屋が建った。

明治35年頃の前宮 29.3.19

『諏訪神社略縁起』 渡辺市太郎編『信濃宝鑑』に、「明治卅四年八月刻 合資会社名古屋光彩館 製版」とある〔諏訪神社上社之景〕の銅版画があります。現在なら写真ですが、当時は写真を印刷する技術が確立しておらず、「宝鑑」とあって高詳細に表現できるこの手法を用いたのでしょう。
 この端に前宮が少しだけ描いてあるので、切り取ってみました。小袋石や若宮社が近接していますが、これは紙面の都合ということでしょう。

 『国立国会図書館デジタル化資料』に、守矢実久編『諏訪神社略縁起』がありました。ここに「官幣中社諏訪上社前宮」とある絵図があったので転載しました。出版年は明治35年で、『信濃宝鑑』と同時期です。

守矢実久編『諏訪神社略縁起』35.3

『諏訪神社略縁起』 上図の右上部にある、現在の本殿に相当する社殿を拡大してみました。あくまで絵図なので正確さは期待できませんが、萱葺きのような社殿が描かれ、その左側には、神木を囲ったような木柵があるのがわかります。

昭和7年以前の精進屋

前宮の精進屋 左は、宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録にある「精進屋」の写真です。前出の絵図と比較すると、『信濃宝鑑』は縦長ですが、『諏訪神社略縁起』とは同じ形状であることがわかります。

 この精進屋は昭和7年に解体されました。そのため、昭和6年発刊の本書にギリギリでこの写真が残ったことになります。

現在の本殿

宮社殿完成 諏訪明神発祥の地 今日竣工奉告祭
 前宮神殿御造営替は十数年前より氏子の間に話題になっていた。大正13年地元宮川村長は時の古川宮司と協議して町村会に提唱。諏訪神社上下社4社御造営を行う時は前宮を最優先するという申し合わせをして、伊勢神宮御造営替(大正18年)の神材を戴き前宮の御造営を成すとの案が決定され、諏訪郡民風作譽会を組織して、皇室に国産の生糸を献上するとともに、伊勢神宮に参詣して神材の払い下げ願い、宮内省にも出頭、願意の達成を図ることとなり、伊勢神宮の関係者皇室や宮家や宮内省、および内務省へ願書を提出し陳情を続けてきた。昭和4年永年の地道の努力により払い下げ内定を得た。計画以来8ヶ年の日子を踏んで、諏訪郡民氏子敬神の赤誠こめ、御造営が完成の運びとなった。

構造形式概要
本殿 梁間21尺 桁行21尺 建坪12坪2合5尺
神門 梁間12尺 桁行15尺 建坪5坪
透塀 延長57尺
玉垣 延長214尺

矢島政紀編『諏訪大社上社 おんばしら いま・むかし』〔御柱今昔〕

前宮本殿 上記は、昭和7年3月28日の新聞の切り抜きです(社名不明)
 このように、伊勢神宮式年遷宮時の古材(一説では余材)を拝領し、「内務省の案で、礎石をそのまま使った一般の神明造りに準じた」本殿が現在の社殿ということになります。

精進屋は子之社として移築

折橋子ノ社 解体された精進屋は、茅野市北山糸萱(いとがや)の「子之社(ねのしゃ)」として蘇ったとあります。
 これは見に行かなければと思いましたが、「屋根も板張りも新しくなりすっかり変わった」とあったので、早速を「その内に」と変えました。後日撮ったのがこの写真です。

前宮のおやま(御山)

 図書館で、昭和41年発行とある今井野菊著『信濃一之宮 諏訪大明神前宮遺蹟』の小冊子を手にしました。その中の〔前宮遺蹟変貌記録(一)〕に、「口碑(くちづたえ)をすなおに云い伝えねばならない」として「御神陵」が載っています。以下は、その抜粋です。

 前宮のおやま(土地の者はおやまと言う)の東部に諏訪大明神の御神陵が鎮まる。そして、その御神陵西部、前宮の拝殿となっている御霊位磐の正面が后神(きさきがみ)八坂刀売命の御神陵であると伝える。
 そして前宮おやま全域は古代大祝一族の神霊鎮まる墳墓であって、露出している岩石はみんな神族を埋めたとき置いた墳墓の「瑩石(たまいし)」とみてよい。
 正面東に鎮まる建御名方命の御神陵は、神代から昭和七年までは単に高い「御神所一間半、玉垣二間」と古来伝える箇所であって、その神籬(みずがき)は七ヵ年に一回、御柱年に建て替え、その中央に古い藤の樹が生えているにすぎなかった。
 江戸期諏方明神祭祀が上社(本宮)に移る以前は、とうてい庶民子供の寄りつかれる所ではなかったろうが、慶長六年藩政以後、否、明治中期でも、「お明神さまの御神陵(おはか)であるから決して上へのぼってはいけない。のぼると罰が当たるぞョ」と、どこの家でも子供にきびしかったし、子供としては巨樹と薮木の多いおそろしい所であった。
 それでも御柱年に近くなると神籬は朽ち、また抜け乱れてしまうので罰があたると聞かされながらも、ついのぼって藤の蔓でそっとブランコをしたわんぱく達は必ず女の子の吊し上げに遇う。

 「前宮には、諏訪大明神と后神八坂刀売命の神陵が二つある」と読めますが、あくまで伝承なので…。

 「昭和初期の前宮は」と意気込んだものの、結局は、言い伝えと明治に描かれた絵図の紹介だけとなりました。