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『守矢信眞願文』 '20.9.17

「金銅をちりばめ…」旧諏訪神社上社本宮の幣拝殿

乙事諏訪神社

 富士見町乙事 (おっこと)に鎮座する諏訪神社の社殿は、元和3年(1617)に建造された現諏訪大社上社本宮の幣拝殿を移築したものです。場所は異なりますが、その当時の本宮は、まさにこれと同じ景観だったことになります。

乙事諏訪神社「幣拝殿」 正面から見ると、浜床の上壇に(この写真では開扉されている)唐戸を設えた幣殿があります。擬宝珠はありませんが、拝殿を含め、各所に飾り金具がふんだんに使われているのがわかります。

「細板御格子」諏訪大社上社本宮の宝殿

乙事諏訪神社「幣拝殿」 年末に行われる「煤払い神事」の一コマです。開扉された宝殿となりますが、その前面は格子で造られています。
 本題の『守矢信眞願文』と『上社古図』の参考になればと、冒頭の乙事諏訪神社とともに写真と説明を入れました。

『守矢信眞願文』

 伊藤麟太朗さんは著書『新年内神事次第旧記釈義』で、『守矢信眞願文』(以下『願文』)について「天正10年(1582)8月当時の神長官守矢信眞が、(中略) 家康様の天下統一が実現すれば、その報賽(ほうさい)として信長により焼亡した社殿の再興を祈願したもの」と解説しています。
 その『願文』から、再建を決意表明した部分を転載しました。これについては、「神長も、まんざら空想で社殿の再建を願ったものではあるまい。必ずや焼亡以前の社殿の状態を頭に入れて、再建を願ったものであろう」と書いています。

無程御神前再興□□然者、御殿者大社作に立之、金銅をちりはめ、奈良之仏師を招下、極さい色にらんかん・きほうし、□□祗候の會廊・女衆殿はさいた御かうし・左右の宝所・護摩堂・奉経所・十六善神・内外平土門・千度大會廊・神事屋・舞台・経蔵・諸廊・車橋・鳥居外垣玉垣、可色取、本地之仏像、其外諸仏を作り、(後略)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』

 これを読むと、文脈に合っていない文言が幾つかあります。その代表は「京都奈良の仏師を招下」でしょう。『諏訪史 第二巻後編』の著者である宮地直一さんは、〔社殿考〕で「京都奈良の工匠は仕上げの装飾だけではなく、建築工事にも従って日頃の腕を振ったのではあるまいか」と“そのまま”を解説しています。しかし、前後に繋がらない語句には「そうかなー」と首を傾げてしまいます。

 次の「女衆殿」ですが、当て字や誤字としても、それに当てはまるものがありません。また「はさいた御かうし」を「細板御格子」と変換しても、社殿名の羅列の中に「構造物」が入るのは不自然となります。

 ネット上に長野県立図書館『信濃史料』があり、『守矢信眞願文』が閲覧できます。微妙な箇所があるので同じ部分を転載しましたが、読み飛ばしても構いません。

無程御神前再興、然者、御殿者大社作ニ立之、金銅をちりはめ、京・奈良之仏師を招下、極さい色ニらんかん・きほうし・祗候之會廊・女衆殿・はまいた・御かうし・左右の宝所・護摩堂・奉経所・十六善神・内外平(塀カ)・大門・千度大會廊・神事屋・舞臺・経蔵・諸廊・車橋・鳥居・外垣・玉垣、可色取、本地之仏像、其外諸仏を作、(後略)
『信濃史料 巻十五_5』

 こちらでは「はさいた→はまいた(浜板)・内外平土門→内外(塀)・大門」とあるのが主な違いです。

校正『守矢信眞願文』

 「ここまで書いたなら」と言うより、以前よりこの内容に注目していたので校正の手を入れたくなります。そこで何回か読み通すと、「京・奈良之仏師を招下」を移動しただけで、意味が通るようになりました。それに句読点を加えるなどして“最適化”したのが、これです。

程なく御神前再興、然(しか)らば、御殿は大社造りこれを建。金銅を散りばめ京都奈良の仏師を招下 極彩色、欄干・擬宝珠。神祗候の廻廊・女衆殿。細板御格子(は)左右の宝殿。経所・護摩堂・奉経所・十六善神・内外塀・大門・千度大内廻廊・神事屋・舞台・経蔵・諸廊・車橋・鳥居・内外垣玉垣。本地の仏像を可色取(彩るべく)京都奈良の仏師を招下、其外諸仏を作り、(後略)

 「これほどの遠距離移動は許されない」との声も聞こえてきそうですが、私は、このように校正しました。

『守矢信眞願文』は、『上社古図』の世界

 「千度大内」が「廻廊」として書かれているなど、この『願文』に挙がる社殿群が『上社古図』に酷似しているのがわかります。そこで、『願文』─『上社古図』として、対応する社殿を並べてみました。

御神前─幣殿・幣殿(金銅を散りばめ極彩色、欄干・擬宝珠)
神祗候の廻廊─十三所(同名)
女衆殿─神楽屋(他図に見える高神子屋)
左右の宝殿(細板御格子 ※絵図では黒い格子)

経所─如法堂(経堂の別称)
護摩堂(同名)
奉経所─奉納堂(?)
十六善神(同名)
大門─二鳥居(二之鳥居)
千度大内廻廊─千度大内四十二間(布橋)
神事屋(同名)
舞台(同名)
経蔵─輪蔵
諸廊(その他の廊)
車橋─石車橋(布橋入口の橋)

 これを、『上社古図』に併記してみました。

『復元模写版上社古図』
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』(部分)

『復元模写版上社古図』 『願文』の通りに幣殿と拝殿が「極彩色」で塗られているので、拡大したものを並べてみました。
 因みに、現在見る脇片拝殿が「廻廊」として描かれていますが、左右の片拝殿はありません。ある時期の社殿配置として、注目に値します。

「上下両寺を宮外に出し…」

 『願文』には続きがあります。

次、有之上下両寺を宮外に出し…、(後略)

 「上・下両寺」は、如法院と蓮池院です。その如法院を、寛正6年(1465)とある『神長守矢満實書留』では、「上坊」と書いています。

 此年十一月廿日夜、大祝頼長大宮上坊に参籠候(そうらい)て行水仕(つかわし)め湯帷(かたびら)着ながら死去候…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第一巻』

 大宮=本宮ですから、確かに本宮内にあることがわかります。因みに、『上社古図』には奉納堂の隣に「水風呂」がありますが、行水をここで行ったのかはわかりません。

 如法院については、『下社神宮寺寛保の起立書』にも以下の文がありました。

往古の境地は社内にして薬師堂の下、如法堂の上にありしが、天正年中…灰燼となれり。…其の中に普賢堂計(ばかり)は残れりと云えり。爾後(じご)殿宇を社外に曳移し再び営造すと…
今井邦治著『諏訪上下社神宮寺資料写真集』

 これを読んで、「如法堂と如法院は別物だった」と、長年の謎が氷解しました。

如法院 それは後述として、如法院は、『上社古図』では法華寺の下・南鳥居の前にあるので移転したのは間違いありません。
 一方の蓮池院ですが、相変わらず『上社古図』に存在しています。享保13年(1733)の『諏訪藩主手元絵図』でも健在ですから、(蓮池あっての蓮池院ということもあり)境外に移転させることはできなかったのでしょう。

経所は如法堂(もしくは経堂)

 同じ社殿を、『上社古図』は如法堂・寛政4年(1792)『上宮諏方大明神繪圖』は経堂・『諏訪藩主手元絵図』では如法堂と書いています。何れかを誤記とするしかないと思っていたのですが、如法堂と如法院は別物とわかったので、「如法堂は経堂の別称」とすることができます。

 「乾水坊素雪が文政二年撰述」とある『信濃国昔姿』に、「十月十六日・納経」が見られます。

一 経堂
出拝(早)の社より左の方の道を登る。凡そ十間斗りにして右の方に有る堂なり。此所にして春より十月迄法華を書写し、十月十日より経衆大勢にて法式有ること七日。十六日辰の一天奉納経有る也。此節十五日夜八つ(※2時)頃より御領主様御名代御出有り。寺社一統相詰めるなり。此朝貴賤群集し参詣多し。秘密山如法院預り所

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第四巻』

 経堂は、今で言う神居の後方にあります。『諏方大明神画詞』では、

社頭の躰三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり、其の前に香花の供養を備う、(中略)中の壇には宝蔵経所斗りなり
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第一巻』

とあるので、『画詞』で言う「経所」はこの経堂とすることができます。則ち、その経所は『画詞』の時代から同所にあり、「尊神の御在所」は神陵なので「花の供養を備う」と書いたことになります。

 『願文』に『上社古図』を絡めたので主題が散漫になりました。それはそれとして、各所に私が考えている“こと”を散りばめましたから、これ以降に繋がるものとして一つでも記憶に残して頂くと幸いです。