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『同 擬古畧図』 '20.9.7

 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』〔社殿考〕に、『同 擬古畧図(ぎこりゃくず)』が載っています。注釈では「松廼落葉(一二)所収」としか書いてないので、その原本をネットで探してみました。ところが、同名の本は幾つかありますが、この略図に結びつくものは見つかりません。「廼」は「の」と読むことだけを報告して、それ以上の深追いは止めにしました。

 伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』では、〔諏訪神社 社殿考(一)〕に、「宮地博士は『諏訪史第二巻後編』にこれをまとめた『擬古略図』をのせられ、これにつき博士は上壇に画かれた鳥居格子の向きが、博士の見解に反する外はおおむね賛成で、かくまでまとめ上げた努力は深く敬意を表するとされて居る」とあります。
 私も「鳥居は右向き」と考えているので、違和感のある「縦方向の社殿配置」は眺めるだけで終わっていました。

(同)擬古畧図 諏方大明神繪詞ニ拠ル

 ここに来て、古態の社殿配置を私なりにまとめてみようという機運が高まってきました。その手始めとして、『擬古畧図』に書き込まれた「諏方大明神繪詞ニ拠ル」という参照文を(ハズキルーペをかけて)通読してみました。

 ◯◯が判読しにくいので右書きの青字を併記し、[※1〜6]に対応する文を図下に並記しました。 ←〈…〉は私の解釈です。
擬古略図

※1「祭巻春上正月一日の段に、下馬の後宮中に詣ず、社頭の躰三所の霊壇を構たり」

※2「上壇には尊神の御在所鳥居格子のみなり、中壇には宝殿経所斗りなり、下壇には松嬬柏城甍を並べ拝殿廻廊軒をつらねたり」

※3「正月一日、さて着座の次第は大祝楼門、五官両神役(※神使)下臈右廊同神役四人(※神使)上臈左廊にて、一族氏人同廊二行三行に膝を重ねてなみ居たり」←〈楼門と右廊・左廊は、御門屋(帝屋)と五間廊〉

※4「祭春下三月酉日の神事(※御頭祭)の段に、其後出門御門屋と号す、暫(やや)黄昏に及て、下略」←〈前宮の記述なので関係なし〉

※5「同寅日御祭の段に、引率して宮中正面の廊に着座、前行の宮人鳥居内右廊に着く、中略、次に前行の在應四人池廊に臨て太刀を抜て四角に立て曲をかなづ」←〈正面の廊は御門屋・鳥居内右廊は現在の注連掛鳥居と五間廊・池廊は現在の神楽殿〉

※6「正月一日、初官以下の輩は伊豆早社より次第に順礼して内宮の壇上に至りて神拝す」←〈順礼所は十三所(現在の摂末社遙拝所)

 これを読んでみれば、すべて『諏方大明神画詞』の文言でした。つまり、この内容に沿って社殿の配置を描いたのが『擬古畧図』ということになります。

『擬古畧図』について

 宮地さんと伊藤さんは、自身の著書に『擬古畧図』挙げていますが、サラリと流しています。あくまで「諏方大明神繪詞ニ拠ル」とあるものなので、単に参考として紹介しただけのようです。
 私といえば、現在の境内を見る限りは、広さの点において縦列の社殿配置は無理があると考えます。また、式年造営を考慮すれば、かなり簡素な造りとしても「社殿が多すぎ」の感を否めません。「拝殿・楼門・廻廊二棟・右廊と左廊」は「御門屋と五間廊」と見るべきでしょう。
 その流れで中段の社殿を整理すれば、『年内神事次第旧記』などに記述される社殿配置に近くなります。くり返しになりますが、『擬古畧図』は、あくまで諏方大明神画詞から見た社殿配置です。それはそれで正しいことに間違いはありません。

『諏方大明神画詞』について

 最近、守矢文書などの実務書に軸足を据えると、『諏方大明神画詞』はかなり誇張して書いているように思えてきます。と言うより、それに間違いないでしょう。「それが『画詞』」とも言えますが、当時の現実(現物)である建造物ですら前述の有様ですから、『諏方大明神画詞』を参照する際にはかなり割り引いて解釈すべきでしょう。