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上社前宮の精進屋 '21.9.5

 前宮の旧社殿を「精進屋」、現社殿を「本殿」と表記しています。

精進屋

前宮の精進屋 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録にある「精進屋」です。大祝が精進した御霊位磐の上に建てた社殿ということで、その名があります。
 実質も何も「前宮本殿」であることに間違いありませんが、昭和7年に、現在の本殿に建て替えられました。

折橋子ノ社 その精進屋は、茅野市糸萱(いとがや)の「子之社(ねのしゃ)」として移築されました。
 現地でその前に立つと「上写真と違う」との疑問が湧きますが、左右を減築したために縦長となったと気が付けば納得できます。

新旧社殿の内部構造

前宮本殿
前宮本殿

 前宮月次祭の一コマです。扉が解放された社殿内を見ると、奥行きはわかりませんが本殿と呼べる社殿が設えてあります。
 ここまで便宜上「本殿」と表記しましたが、外殻の社殿は、拝殿兼本殿の覆屋と言うことになります。


折橋子之社本殿
子之社本殿

 一方の子之社を拝観すれば、前宮と同じ造りですから、前宮に鎮座していた精進屋の内部も同じ構造・配置だったことが窺えます。逆に言うと、精進屋の形式がそのまま現在の前宮本殿に踏襲されたことになります。
 これまでは見た目の社殿のみを移築したと思っていましたが、内外一式を移したと考えを改めました。

精進屋は、乙事村が造営した

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項 本郷村篇』〔乙事諏訪神社上社〕を読んで、精進屋は、前宮に建てられていた幣殿を拝領移築する際に、その代わりとして乙事村が建てたものとわかりました。

○ 天保四年諏訪大明神上社の神前建て替え起工に際し、元和三年上棟になりし御神前(即ち現乙事諏訪神社拝殿並に幣殿)は一先ず引き払うこととなった。取り払いし古神前は願出により五官(神長官・祢宜太夫・権祝・擬祝・添祝)及びその他の神官に夫々分与してしまった。
(中略)
幣殿を賜りたる祢宜太夫守屋要人は之を小待(町)屋村前宮奥御社として小待屋村え建てたのである。
○ 拝殿は直ちに運搬せるも幣殿は小待屋村前宮へ納めしこと故交渉中々進まず、嘉永五年に至り小待屋村前宮へは乙事村に於て代わり御殿を新築する事として、漸く交渉解決し祢宜太夫守屋要人より一札をとる事となった。
(中略)
○ 前宮へ新築する代わり(の)御殿は嘉永六年八月上桑原村普門寺矢崎善次郎氏(に)請負わし、同年十二月上棟請負金支払いも済んだのである。

 「祢宜太夫は、幣殿を渡すまでには様々の口実を作りて金子を強要した」という話は置いて、代替えの社殿は、昭和7年当時で80年余り経っていることになりますから、写真の痛み具合からみても精進屋であることは間違いありません。

 それについて『昭和初期の前宮』では「その後、雨風をしのぐためか、茅葺きで屋根に千木がある切妻造りの仮屋が建った」とする文を紹介しましたが、古から、れっきとした本殿であることが判明しました。

 寛政4年(1792)の『上宮諏方大明神前宮繪図』では前宮を二つに仕切って描いていますから、その当時から現在の本殿に至るまで同じ構造であることが想像できます。ただし、その仕様が寛政以前のどの時代までさかのぼれるのかはわかりません。式年造営が廃絶した以降と想像はできますが。