諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社雑学メニュー /

勅使殿(帝屋・御門戸屋) '21.9.23

 久しぶりの本宮境内とあって入口御門と布橋が修復中であるのを忘れていましたが、勅使殿と五間廊の最新の姿です。

勅使殿と五間廊

 目的とした「封紙」は痕跡のみで、金メッキの錠が代わりをなしていました。今まで読むことがなかった案内板「勅使殿 国重要文化財」の後半部分です。

勅使参向の折には幣帛の授受が行われた所である。
元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。
当時の勅使殿は今の神楽殿の前あたりにあり拝殿の性格を持っていた。

勅使殿と神居

 以降に出る文献の出典は、信濃史料刊行会『信濃史料叢書 第七巻』です。

不開妻戸と下長押

 「嘉暦四年巳巳三月日(1329) 相模守平朝臣高時」とある『大宮御造営之目録』から「次御門戸屋」を転載しました。

海野・会田之造営者、田途(田の津※田に掛ける税金)仁て造申也、不開妻戸・御座・沓脱下長押、何祢津之造営、七年に一度造之申也、

勅使殿の封紙 この「不開妻戸」を読んで、昔撮った勅使殿の写真を思い出しました。挟んだ木片は通気のためとしても、扉の上下に貼られた紙片を「これは何かの封印か!?」と、(削除できずに)外付けHDDに保存したものです。改めて確認すると、勅使殿の別称が「御門戸屋」で、妻戸に封紙ですから、まさに不開(あかず)の妻戸です。

勅使殿と五間廊
平成15年10月

 また、寺社建築の「内法長押(うちのりなげし)・腰長押・地長押」から、廻縁の下にあるのが「下長押」に相当します。「沓脱」については説明できませんが、現在の靴脱ぎと同じく、昇壇する際のステップ「階段(きざはし)」とすることができます。
 『大宮御造営之目録』に出るこの三つの呼称が現在の勅使殿に当てはまるのかはわかりませんが、今もその様式を伝えているとすれば、当時からこの場所にその姿があったとすることができます。

上社本宮の境内図

 「内陣・御神前」「御門戸屋・帝屋」と錯綜しますが、各々は別称で、現在は「神居」「勅使殿」と呼ばれています。

境内図 本宮の実測図から、関係する部分を切り抜いたものです。社殿の向きがそれぞれ微妙に異なっているのが面白いのですが、ここでは、下部の勅使殿の位置を頭に置いてください。
 以下に出る古図から、江戸時代後期に現在地へ移転したことがわかっています。

古図に見る「帝屋と内陣」

境内図
『上宮諏方大明神繪圖』(部分)

 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』に、「寛政四年壬子年」とある本宮の境内図があります。その中で最大文字で書かれた内陣(神居)に目を留めると、拝殿に接した片拝(殿)が左右対称でないことに気が付きます。
 それはともかく、帝屋(勅使殿)が、本宮の中枢部である内陣と横並びになっていることに注目すると、「内陣─幣拝殿」に完全対応するのが「帝屋─五間廊」という考えが浮かびます。

境内図
神長官守矢史料館蔵『復元模写版 上社古図』(部分)

 それは1792年当時の本宮の姿ということですが、江戸時代初期の作とされる『上社古図』を眺めると、幣殿・拝殿が大きく描かれているので単純には比較できません。しかし、五間廊が宝殿と同位置にあるので、『上宮諏方大明神繪圖』と同じ配置であると見て間違いありません。

帝屋は内陣と同等

 『大祝職位事書』では「前宮で即位した大祝は本宮を参拝した。大祝は御門戸屋に着座し、その前で神事を行った」とあります。これを『上宮諏方大明神絵図』で見ると、「内陣(諏訪明神)─拝殿」を左に見ての「帝屋(大祝)─五間廊」となります。つまり「諏訪明神は大祝と同体」ですから、内陣と同格の祭場を、帝屋として横並びに設営したと理解できます。
 この関係をどう書くか悩むところですが、「死に神」と「生き神」の関係とすれば、うまく説明できます。まことに変な表現ですが、「死に神」を「神陵」に置換えれば賛同してもらえるでしょうか。

『大祝職位事書』に出る「御門戸屋と御正面」

 『大祝職位事書』は、神長官が、大祝が即位した際の様子を記録した中世の文書です。この頃は、まだ『諏方大明神画詞』が書くところの「上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみ」だったと思われます。ここでは、本宮での参拝順がわかる部分のみを転載しました。

 読みやすいように書き替えてあるので、気になる方は原書で確認してください。
御宝殿を祢宜に開かせて七度拝して後、御門戸屋にての神事。正面へ詣有りて後、小宮巡り。
建武2年(1335)
 御宝殿を祢宜に開かせて七度拝して後、御門戸屋にての御神事。神事畢而(おわりて)神前へ例の如く詣ず。
応永4年(1397)
 御宝殿を祢宜に開かせて、七度拝して神長申し立て、御手幣(みてぐら)参らせ候、御手払いあり。大宮御門戸家、大祝殿御座有りて神事畢、座を立ち御正面へ御参あり、御幣申し立て、御手払あり。
寛正7年(1466)
 祢宜扉を開け候えば神長大祝殿宝殿内へ参り、御祝殿に御幣御手幣参らせ、職位大法神道給い申す。御幣取申し、御輿に献、御手払わせ申す。御門戸屋へ御出候。御正面へ御参有り、御祝殿神長計り申入れ。へ参り御幣御手幣大祝殿に神長持たせ申し、即位法・祝詞申し、御幣・御手幣取申し神前献、御手を払わせ申す。さて御かしきとの(御炊殿)へ御参ありて…御手幣給いて神前献。
文明16年(1484)

 建武から150年の開きがあるこの書では、宝殿の中に入り、神輿に今で言う拝礼・玉串奉奠をしたことがわかります。

 古御宝殿御参り候。御門戸屋にての御役、雅楽(がこう)安大夫又は小鷹に門を開かせて、へ大祝殿御参候。神長御授申し御幣大祝殿に持たせ申す、秘法印咒あり候、御炊所へ御参候。
文明17年(1485)

 前回の文明16年を含めて「詳細に書いた」というより、神長官が仏教を取り入れて神事次第を複雑化させた可能性を考えてしまいます。余談になりますが、時の神長官は守矢満実ですから、この頃に発生した神長官と祢宜の対立も“崇仏”に傾倒した神長官に他の四官が反発した出来事と見てしまいます。

 上記では省略した帝屋の設営と神事です。

御門戸屋にての神事、五官布一つ(反)づつ、雅楽布二丁(丈)、十四人小社祝布二丁。これを集めて御門戸屋に敷き、その上に御穀を供え大祝殿御座有り。大祝殿御前に桝の高盛例の如し、五官前は三立儀式、大瓶三、御前に瓶子一、小御穀例の如し、
建武2年(1335)

 布を敷いた上に座る大祝・その前に置かれた供え物(神饌)ですから、まさに生き神です。五官や小社祝は五間廊に着座したと読み取れるので、帝屋と五間廊は今で言う「幣殿─拝殿」の関係に見えます。
 この神事が終わると、御正面(内陣)を参拝してから十三所の巡拝に向かいます。

内陣は諏訪明神の墓所

 『大祝職位事書』における本宮での神事は「大祝就任のお披露目」に間違いありませんが、その後の諏訪明神への参拝は“ついで”のような扱いです。現役の強さとしてそのような形式になったと考えるしかありませんが、「本宮では諏訪明神と大祝の二柱の神が存在する」ことの矛盾が現れたようにも見えます。
 本来なら、(生き)神である大祝が居住する神殿(ごうどの)と神事を行う前宮がありますから、本宮が存在しなくても“うまく廻り”ます。その中での御門戸屋の神事を含めて本宮を参拝する不合理さの参考になるのが、天皇が即位・退位の報告をする奈良の橿原(かしはら)神宮と域内にある初代天皇である神武天皇陵の参拝です。
 親謁(しんえつ)の儀と呼ばれる「橿原神宮・神武天皇陵の参拝」はそのまま「本宮と神陵」に当てはまりますから、一連のモヤモヤはすべて解消し、「内陣は諏訪明神の墓所」として素直に受け入れることができます。

“勅使”殿

勅使殿 勅使殿の蟇股に菊の紋が見られるので、後付けの呼称「勅使殿」も納得できます。しかし、信濃国府から来た祭使を勅使とするのは正確ではありませんから、新たに幣拝殿が上壇に造営されて以降、使い道がなくなった帝屋を、「もしもの時」に備えて勅使用に転用したと考えてみました。しかし、同じ冠詞が付く勅願殿の古名が「祈祷所・祈祷殿」ですから、「勅」に意味を求めるのは無意味ということになります。

御門戸屋は、『諏方大明神画詞』に出る「楼門」なのか

 『諏方大明神画詞』に載る「楼門・宮中正面の廊」を挙げて、「楼門→御門戸屋→帝屋→勅使殿と変わり、宮中正面から現在地に移った」とする説があります。しかし、勅使殿は「門」とはまったく異なる構造です。
 そもそも、『画詞』は、京都に居ながらにして収集した史料や伝承を元に編纂した絵巻物です。荒唐無稽でも許される〔縁起〕はともかく、当時の現実である〔諏訪の祭事〕にこの『画詞』を持ち出すと、整合性に悩むことになります。そのため、この場を借りて、今迄は「まず『諏方大明神画詞』ありて」でしたが、あえて一歩も三歩も距離を取ることが現実ではないか声を挙げてみました。