平成22年に「坂室公園の三峯社」として紹介しましたが、写真が、3月の夕暮れ時とあって寒々しく写っていました。その撮り直しと、お仮屋の現況を確認するために再訪しました。
帰りは「こんな所に道が…」という小道を下ると、中腹に石造物が一括して並べられています。
眺めると、近在から集められたとわかる馬頭観音が9割を占めています。ところが、その仲間から除外されたかのように、右のやや離れた場所に「馬頭観世音」碑があります。
「右 東京道」と読めますから道標とわかり、別個に置いた意味に頷くことができました。
しかし、明治以降の建立とわかっても、この場所に「東京道」とは…。しばらく考えて、これは麓を通る甲州街道−国道20号線脇からここに移したものと理解できました。取りあえず写真に収め、下るという行為を再開しました。
自宅で読むと、左側は「原邑道」と「左三峯山左」でした。「どうゆーこと?」と何回か読む中で、下の「左」は「道のくずし字」と気が付きました。
なぜ「道」の書体を統一しなかったのでしょうか。「人一人がやっと歩ける山道だから、ラフに書いた」との解釈もできますが、当時の人は何の迷いもなく・何らの疑問もなく読んでいたのは間違いありません。
こんな(以上の)経緯があったので、写真を活用し、小文と地図を加えて紹介したのが今回の「道標 三峯山道・東京道」です。
「明治四十三年測圖昭和六年要部修正測圖」とあるので、昭和初期の地図となります。また、これに関連した文は、北→南(諏訪→東京)という方向で書いています。
国道20号(━)は宮川を渡らずに、その川沿いを並走しています。旧甲州街道と同じルートですから、街道歩きを楽しむ人はこの道となります。また、参考として、諏訪大社上社から御射山社に向かう「御射山道(━)」も着色してみました。
諏訪圏外の人には理解できないという説明が長くなりましたが、宮川橋の手前となる分かれ道に道標の原位置を推定で示してみました。
やや小文字となる「原邑道」ですが、(八ヶ岳原人が棲む)原村へは「三峯山道」の尾根を伝っても「御射山道」に合流します。しかし、右下に原村への道がありますから、「原村道」は「右東京道」に含まれると読んだ方が自然でしょうか。
三峯山の由来となった三峯社ですが、お仮屋のカヤ仕立ては健在でした。前回とはやや趣が違いますから、その時の“情勢”で変わるのでしょう。
御札も今年のものが安置してあり、「坂室講社御中」が読めました。改めて確認すると、他の祠と共に、坂室の集落を見下ろすように並んでいました。