文化庁『文化遺産オンライン』から、『富嶽三十六景』の一枚「信州諏訪湖」の写真と解説を転載しました。
葛飾北斎は「信州 諏訪湖」としか説明していませんが、ここでは、中央の建物を「弁財天の祠」(以下弁天祠)と解説しています。地元の岡谷市を始め全国的に“常識”として取り上げていますから、誰もが頷いています。
ところが、弁天島があったのは釜口水門の近くですから、富士山は右手から続く尾根に遮られて見ることはできません。また、元々の弁天島は「砂州が発達してできた陸地」ですから、このような俯瞰した湖岸を見ることはできません。
「弁天祠ではない」とすれば、諏訪湖を見下ろす高台にある神社が考えられますが、後方を振り返ってもそのような地形はありません。また、“富嶽三十六景特有の構図”であることに留意しても、弁天島を「島」として描いていないことに大きな疑問を感じます。
何にでも「チョッと待てよ」と疑問を持ってしまう私は、とりあえずこの「!?」を記憶の上層部に常駐しておくことにしました。
塩尻峠にある「大石」の資料を探していたら、文化2年(1805)刊の秋里籬島著・西村中和画『木曾路名所圖繪(図絵)』を見つけました。大石は絵図の下部中央に描かれていましたが、それより、塩尻峠にある「浅間祠」に注目しました。
塩尻嵿(とうげ) 塩尻と下諏訪の間にあり、塩尻より二里登る。嵿より諏訪の湖遥に見る絶景なり。
浅間祠 嵿にあり、鳥居たち此所より富士山向い合せなり、故に社あり。此所原山にして樹木なし。
浅間神社なら、即「富士山」です。『木曾路名所圖繪』の文と絵から、葛飾北斎は「(弁天祠ではなく)浅間社(祠)を描いた」という考えに至りました。
弁天祠は、江戸時代に制定された『洲羽八勝』の一つとして知られていますが、その対象はあくまで「“弁天島”の弁天祠」です。北斎は島として描いていませんから、「信州諏訪湖」のそれは弁天島ではない可能性があります。さらに、「題」にあるように名勝としての諏訪湖はすでに織り込み済みですから、必要な構図としてもそれが弁天祠である必然性はありません。
私は、もっと意味がある構図として「諏訪湖を挟んだ二つの富士山を描いた」と考えてみました。これより、諏訪湖を見下ろす神社は浅間社という流れで進めます。
『文化遺産オンライン』では、「この版もまた、藍一色で摺られた初摺りのものから、空の夕日や草木の緑など配色が変更された後摺りのものである」と続いています。木版画では重刷による版木の摩耗や彫り直しが考えられるので、北斎の“意志(意趣)”が残っているであろう「藍刷り」を探しました。
「北斎の絵には何かの“主張(主題)”がある」ことを前提に、初刷りに近いと思われる下の写真を眺めてみました。もちろん、テレビで視聴したTV東京『美の巨人たち』の「神奈川沖浪裏」が脳裏にあります。
すでに「富士の形と相似するように描かれた弁財天の祠」と説明にありますから、前述の「二つの富士山」を当てはめて凝視してみました。
そこで気が付いたのが「両富士の雪形」です。□で囲んだ部分を交互に見比べると、朽ちかけて茅が抜け落ちた切れ込みが富士山の雪形と一致しています。それより一歩踏み込んだ“解説”では、前景に、雪形(屋根)・岩場・森林限界のハイマツ(植え込み)として「もう一つの富士山を再現した」となります。
さらに、大棟に重ねた鰹木にも似た“押さえ”(□)も同じ形です。他の富嶽三十六景にある萱葺き屋根にも同じパターンが見られますが、白色なので“雪形の相似形三連発”とすることもできます。
『神奈川沖浪裏』では「円弧と直線」の組み合わせ、『江戸日本橋』では「消滅点がある遠近法」を用いていますから、『信州 諏訪湖』での主題は「相似形」でしょうか。
紙がベージュ色に変色していますが、藍刷に近い時代のものです。無理を承知で拡大したので画像圧縮時のブロックノイズが出てしまいましたが、こう並べてみると、それぞれの形が酷似しています。
左は、時代が下がったカラー版です。“多色刷りの弊害”で、本来は雪の白である部分が塗られています。また、北斎が相似形であることを彫師に伝えたのかはわかりませんが、この版木では“その意志”は受け継がれなかったようで、彫師の美意識が介入したのか雪形は崩れています。
以上は、あくまで私の推理です。本人に確かめることはできませんが、それだけのこだわりがあるのが「富嶽三十六景」の「三十六景」たる所以(ゆえん)だと思います。こうなると、「三十六景」の一枚毎に奥深い解釈ができるかもしれません。それは「深読みだ・こじつけだ」と言われるかもしれませんが、何か新しい発見に繋がる可能性は十分にあります。私は「諏訪湖」でしたが、三十六景それぞれの地元の地理に明るい方の新解釈を期待しています。
“現地編”富嶽三十六景「信州諏訪湖」 絵の解説はこれで終えて、塩尻峠に立って実景と比べることにしました。続きは以下のリンクで御覧ください。