山王閣は営業を終了し、現在は更地になっています。その端から眺めると、かつて存在していた神宮寺が一望できます。ただし、今は痕跡さえも残っていないので、古絵図片手に「あの辺りが…」と想像をたくましくするしかありません。
思いついて、武居稲荷社からの帰りに言成地蔵に寄ってみました。「下諏訪観光協会」が設置した案内板です。
「ネットで紹介するから」と言い聞かせながら、御開帳してみました。改めて拝顔すると肌にハリがあり、とても元禄生まれとは思えません。
ここで、案内板の設置者が観光協会で「元禄」の根拠も併記していないことから、その誕生日を疑い始めました。しかし、「畏れながら実年齢を」と衣を持ち上げるのは、言いなりになるにしても、それを実行するスペースがありません。一連の非礼を詫びながら扉を閉じました。
これで終わらないのが、このサイトの“凄い”ところです。引き続き、御覧ください。
堂前に、円柱の石造物が埋まっています。「奉寄附常夜燈」とあるので、常夜燈の竿であることがわかります。
壊れやすい火袋が失われているのはよく見ますが、基台がないことと不安定な石垣際という位置から、竿のみがここに運ばれて設置された可能性を思いました。
「秋宮に同じものがある」と聞いていたので、前から見当をつけていた一之御柱へ向かいました。
その下方に、「当社之犬射馬場」などの標石に並んで同じものがありました。傾いているのは「ただ置いてある」ということなので、「神宮寺住法印憲清・元禄十二己卯天(1699)九月吉(日)」と、銘のすべてが読みとれました。
諏訪の図書館では、上社・下社の神宮寺関係の書物はこれしかないという今井邦治著『諏訪上下社神宮寺資料写眞集』があります。所載の『海岸孤絶山起立書』にある〔海岸山先碑暦代〕を順に追うと「法印憲清」の名があり、彼が66才の時に、今は竿だけ残った灯籠を建立したことが判明しました。
第三十三世 法印憲C大和尚字は教俊房宮沢氏、諏訪駒沢邑の人也、(中略) 次に当社神前并(並)に千手宝前常夜燈各二基建立、元禄壬申(1692)玄奘坊に退休、入滅宝永二乙酉(1705)五月二十八日行年七十二歳、
しかし、神仏習合の時代とわかっていても、ここに書かれた「当社の神前」をどう解釈したらと悩みます。結局は、「当山」ではないので、「諏訪大社の神前」と理解しました。その竿が秋宮の境内に残っていることが説明できるからです。
これで、言成地蔵の前にある竿は、千手堂にあった常夜燈ということになります。竿だけが置かれているのが不思議ですが、縁故の人が、憲清さんの名が刻まれた竿を記念(顕彰)碑として縁の神宮寺跡に設置したと考えました。また、案内板の「元禄年間…」は、この銘を根拠にしたことが
窺えます。
前書に折り込まれた『信州諏方法性宮本地 海岸孤絶山法性院神宮寺境内圖』の一部を転載しました。
左端にある三重塔の下に「ヂゾウ」が描かれています。この地蔵が言成地蔵尊だとすれば、そこが「元の位置」ということになります。断定はできませんが、コピーして現在安置されている場所に貼り付けてみました。