堀江三五郎著『諏訪湖氾濫三百年史』から、〔徳川時代篇〕の一部を転載しました。
筆者は「辨天島を透して見た諏訪湖富士の繪を描いたのであった」と(解釈)していますが、弁天島があった尾尻(釜口)に立てば、それは実景とは余りにもかけ離れた景色であることがわかります。そのような諏訪湖の端にある弁天島をモンタージュさせた構図は、私には「違和感がある」ものとして映ります(と、まず否定しておいて…)。
葛飾北斎は、富嶽三十六景「信州諏訪湖」のモチーフを逆さ富士と決めて、実際に諏訪まで足を運んだことがわかりました。その「逆さ富士の上を舟が通る」景観が見られる場所として古くから「衣ヶ崎(ころもがさき)」が知られていますが、改めて、それに関する記述を集めてみました。
松本藩の地誌『信府統記』から〔名所記 附 古歌〕を転載しました。
歌の作者「空海」は眉唾としても、「衣ヶ崎では、川に“逆さ富士”が映る」と書いてあります。
小岩高右衛門著『諏方かのこ』から抜粋しました。和歌を除き、現代カナ漢字に変換してあります。
「衣が崎の橋より見れば…御崎に影さす」という表現ですが、空海の和歌を挙げ、さらに自作の和歌「富士映る」を載せているので、『信府統記』とまったく同じ内容ということになります。しかし、一段低い川に、しかも波立つ川面に富士山は映るのでしょうか。
『国立国会図書館デジタルコレクション』から、日本古城絵図〔信州諏訪〕とある高島城の一部を転載しました。ただし、筆字以外は私が書き込んだものです。
“此所”には確かに富士山が描かれていますが、…逆さになっていません。時代も「江戸中期−末期」ですから、富士山関連の記述はあくまで想像上のものということでしょうか。
この絵図が、信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に集録された『千曲之真砂』の挿絵(添付資料)に使われていることがわかりました。後先になりますが、こちらの記述も転載してみました。
これを読めば、諏訪湖の逆さ富士は現実の風景となりますが…。
勝田九一郎正履著『洲羽事跡考』から転載しました。長文の上に読みにくい文体なので、わかりやすいように区切ってみました。なお、原文を損ねない程度に現代カナ漢字に替えてあります。
わかり難いので、何回も読み直しました。その結果「大きく変わっている現在の景観だが、昔の名所『衣が崎』が、今も“そのまま”伝わっている」と理解しました。そうなると、『諏方かのこ』の作者はいかにも見たようなウソを…。
その上で、衣ケ崎の場所を推定しています。ところが、「八詠樓(楼)」は高島城内にある能舞台とわかりましたが、「辨天社」が不明です。
(私の性分で)しつこく探した結果、明治元年と時代が新しいのですが、双方が描かれた長野県古地図刊行会『慶応四年信濃国高島城下町絵図』から、該当する部分を切り取って転載しました。
私は「衣ケ崎の逆さ富士は“あり得ぬ”」方向に傾き掛けていましたが、それが見られる条件を挙げています。さらに、勝田さんは「(条件が揃った)天保13年(1842)に目の当たりにした」と言っています。
難解です。要約できないので「じっくり読んでください」としか言えません。見当外れを覚悟で現在の景観に置き換えれば「衣の渡しが富士山が映る湖面だが、これを“高島城大手門の橋・衣之渡(えのど)川”に当てはめるのは間違い。逆さ富士が見られた衣ケ崎は、この辺りがすべて湖水であった昔の事」ということでしょうか。
さすがに、高島藩「長善館」の藩需を務めた学者です。ここまで書かれては私の出る紙面はありません。立場上ということもありますが、もう少し庶民にも楽に読める文体に近づけてくれれば“いいね”と書くところですが…。
高遠藩の儒者兼医師「中村元恒」とある『八詠楼之記』の一部です。彼の生没が1778〜1851年なので、1830年頃の作としました。
「水の“底”に写る」という表現が気になりますが、「日初めて昇る時」とあり、朝日が昇る時を「映る」条件としています。残念ながら、「橋の上より川の南を直に下すれば」という記述に納得ができるような解釈ができません。
長野県立歴史館所蔵の『諏訪郡古跡名称絵図 写』が『信州デジくら』で見ることができます。基本情報には「明治初年各村から県へ提出した村誌に添えて提出した絵図の写しである」とあるので、『長野県町村誌』の挿絵用でしょうか。その中から「衣ヶ崎」の一部(部分)を転載しました。なお、裏側の絵と字が透けて見えるので注意してください。
ページの右端には「村の西の方にあり、古人板橋の東南の方川幅廣(広)くして富士山の影移(映)ると云、今川幅□□の流あり、衣の渡川と云」と説明があります。(私には)読めない字がありますが、「古人…云」ですから、現在は見ることはできなく、あくまで想像図ということでしょう。
葛飾北斎は「信州諏訪湖」を作成するにあたり、古(いにしえ)に空海が詠んだ「衣が崎の逆さ富士」を実見しようと諏訪まで来たと思われます。しかし、この時代では諏訪湖が氾濫して大海となり、しかも湖面が無風で鏡状になるという条件に限定されます。そのため、「逆さ富士」を断念して描いたのが、この(サブタイトル)「二つの富士山」としました。
改めて「信州諏訪湖」を眺めてみました。
高島城の左方にある■■の塊が城下町の家並みであることから、高島城からその周辺にかけては、沼地や湿田として描いたと解釈できます。そのため、手前の祠と富士山の位置を除けば、当時の景観を忠実に写し取ったと言えます。
しかし、“絵葉書”で終わらせないのが葛飾北斎です。まず、主題としたかった「逆さ富士」は諦め、代わりに、(私が主張する)富士山になぞらえた塩尻峠の富士浅間社を(萱葺きの木祠に代えて)手前に大きく置き、その左肩に舟を“点景”として描き入れたとしました。舟を拡大すると艪がありますから、これで、正に「富士の上漕ぐ 海士の釣舟」となりました。
左図は、富嶽三十六景「信州諏訪湖(3)」の冒頭に載せたものです。高島城本丸の左にある櫓に注目してください。
以前より気になっていたのですが、屋根の勾配が、富士山を囲んだ三角形を反転させたもの(逆さ富士)と一致します。また、石垣下にできた小三角形も富士山頂の三角形と同じになります。これが、“隠れ逆さ富士”ではないかと閃きました。
「葛飾北斎がそこまでやるか」と反論されそうですが、“葛飾北斎だからやった”とも言えます。これで、「高島城と逆さ富士にこだわった北斎の執念をこれに見た」とし、テーマを「雪形の相似形」と考えてきましたが、加えて「隠れ逆さ富士と雪形の相似形」としました。もちろん、「当たるも八卦当たらぬも八卦」の占いと同じ考察であることに変わりありません。
ここまでの〔諏訪湖の逆さ富士〕は『信州諏訪湖』四部作の最終章ですが、「葛飾北斎はここから描いた」と推定できる『鎮神社』を番外として用意しました。