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長沢の石幢と神宮寺石 諏訪市神宮寺 2003.8.16

 神宮寺長沢の石幢(せきどう)
諏訪市有形文化財
 六地蔵を石幢にまつることは戦国時代末から江戸時代前期にかけてこの地方で多く行われたが、これはその中でも年代が古いほうであり、銘に

「奉造立意趣者現当二世悉皆成就也
慶安元年戌子二月吉日
  施主為妙精菩提也」

とある。
 この地方は神宮寺石の原産地であり、この石幢もみごとな神宮寺石で作られている。
指定 昭和43年4月10日
諏訪市教育委員会 

 前宮方面からみると、北斗神社の手前左に上記の案内板が立っています。案内板の位置から背後のプレハブ小屋の中に安置されているようです。鍵に手を掛けましたが、その役目を立派に果たしているので諦めて立ち去りました。

長沢の石幢

長沢「六地蔵石憧」 今日はお地蔵さんが招待してくれたのでしょうか、目的もないまま小屋と廃屋の狭い小路に入り込むと、小屋の裏側に当たる左側に何か“石造物の墓場”のような一画がありました。念仏碑や二十三夜塔、観世音菩薩塔、庚申塔などが所狭しと立っています。小屋ができる前は、県道側から直接見えたと思われますが、現在の閉塞された空間では空気がよどみ饐(す)えた臭いさえ漂っていました。

長沢「六地蔵石憧」 「石幢」が何たるかを知りませんでしたが、「六地蔵」から、穴が六ヶ所あるこの全長190センチの“灯籠”だと分かりました。丸窓をのぞき込むと、地蔵は造りが雑というか簡素というか表情が全くありません。幢自体も、もう少し…、と思われるレベルです。(みごとな神宮寺石と)石をほめるしかなかった教育委員会の苦慮が想像できました。

神宮寺石

 神宮寺区の裏山から産出する安山岩だそうです。中洲公民館刊『中洲村史』から引用しました。

薄い小豆色で柔らかくて細工し易くしかも腐食することがない・粘りがあって石で叩くと乾いた快音を発する・吸水性が強く盆栽などの栽培に適する。

 今は採り尽くされたそうですが、諏訪大社を始め、多くの神社で石祠や灯籠・玉垣などに使われています。写真のように「小豆色」をしていますから、コケが乗っていない限りすぐわかります。

長沢の石幢について

 銘の「意趣者現当二世悉皆成就」は、「いしゅは、げんとうにせいしっかいじょうじゅ」と読みます。「現当二世」は仏法の用語ですが、ネットで調べると「悉皆(※全部・全て)」は今でも広く使われていることに驚きました。
 「長沢の石幢」については、今井廣亀著『諏訪の石仏』に「神宮寺石幢」として解説がありました。

(前略)これは妙精がみずからのために建てたもの、いわゆる逆修供養のものとみえる。すなわち自分で自分の死後の供養をしておくというのである。すべて供養というものは、それがどんな形で行われたとしても、供養される先方へは二割しかとどかず、八割は供養した者の方へはねかえってくるものという信仰があり、自らが自らの供養をしておけば効率百%ということで、だいぶ流行した供養法である。

本宮の土砂災害

 平成21年8月8日、諏訪市湖南地区を襲った土砂災害は、諏訪大社本宮も巻き込みました。幸いにして社殿に被害は及びませんでした。

神宮寺石 四之御柱の脇を流れる沢は、いつもはチョロチョロですが、この時は多くの土砂を堆積させました。二ヶ月経った10月4日ですが、暗渠の工事は手着かずで、まだ土石が境内に置かれていました。
 何気なく見ると欠けた部分が小豆色です。神宮寺石でした。加工前の自然石を見るのは初めてなので「85×145cm」と記録しました。シダが生えているので、埋もれていたのではなく山際にあったものと思われました。

「長沢の石幢」平成23年10月の現況

長沢の石憧 プレハブ小屋が取り払われ、石造物群の周囲は“乾燥化”が進んでいました。丸太のベンチはありますが、暫定的なロープ囲いなので、まだ整備は終わっていないようです。開放的になって視野が広がったためか、今日初めて「力石」があることに気がつきました。