「武津(たけつ)公民館の近くに舟繋ぎ石がある」と聞き、かつての諏訪湖がこの辺りまで広がっていたことを検証できる石として興味を持ちました。
甲州街道を歩く人は多くいます。しかし、街道の定義をどの時代に置くかでルートが変わりますから、正確にトレースするのは難しいようです。
この写真の左端にあるのが、道祖神です。その背後が武津公民館で、電柱状の火の見櫓には半鐘も見えるので、この場所が古くから集落の中心地であることがわかります。因みに、ここに写る「旧甲州街道」は、その先は舗装が切れ、人がすれ違うのも困難な道になっています。
「何にでも御柱を建ててしまう諏訪人には困ったものだ」と半ば呆れながら、舟繋ぎ石があるという公民館前に立ちました。しかし、それらしき石はありません。
現在は、バイパスの開通で旧国道となって車の通行はまばらで、人の姿はまったくありません。ところが、不思議なことに、私の“出現”に合わせたかのように、旧甲州街道の小道からカメラを提げたお年寄りがこちらに歩いてきます。
早速「舟繋ぎ石を探しています」と声を掛けてみました。「その道祖神の裏にある」と応えてくれましたが、“これからお出かけ”という姿に心配して制限を申し出たほど「地元では『こんぼった石』と呼んでいる。火を灯して湖からの灯台代わりにした。昔の諏訪湖は極近くにあった。(写真右の)「秋葉山」は公民館横の辻にあったが車の通行の邪魔になるのでここに移した。子(ね)の神神社や秋葉神社はこの裏の山にある」と続きました。
道祖神の背後に隠れるようにしてあったのが、私が言う舟繋ぎ石でした。その別称が「こんぼった石」とわかったので、傍らに立つ『銘石こんぼった石』を読んでみました。しかし、前に張った植え込みの枝葉が邪魔で、完読する意欲を失いました。
こんぼった石には、円錐状の窪みが幾つもあります。「灯台代わりにした」との話に、それに油を入れて火を灯したと想像することはできても、この石を使うのは現実的ではありません。風雨対策と、ある程度の高さが必要ですから、各地に残っている木や石の灯籠形式のほうが合理的だからです。
「舟繋ぎ石」として来た私には余りにもイメージと異なるので、石の基部を覆っているササを払ってみました。ところが、ただ置いた状態です。目測の高さ60センチ・長さ1mのこんな丸石では舟を繋ぐには不適です。言い伝えに反発するのも大人げないのですが、「何か違うのではないか」と、この場を離れました。
斜めながら、季節が変わって見通しがよくなった碑文をテキスト化してみました。ところが、句読点が無い上に文脈の乱れがあるので、肩すかしを食う箇所が幾つかあります。揮毫を請われた諏訪市長も、この撰文にはさぞかし戸惑ったこでしょう。
私は、何回も読んで、男性の話にあった「灯台の話」は、こんぼった石とは関係ない「秋葉神社の灯火」と理解しました。
このままでは気が済まないので、お節介にも、句読点を付けて読みやすくしてみました。
文中の「舫石」が、探していた「舟繋石」と一致しました。試しにネットで「舫石」を検索すると、各地に残っているその石が写真と文で表示しました。何れも大石で貫通した穴が空いていますから、武津の「舫石・舟繋石」とは大きなズレがあります
「銘石こんぼった石」の由来が心許ないので、諏訪四賀村誌編纂委員会『諏訪四賀村誌』の〔武津〕から抜粋して転載しました。
ここでも、碑文にある「秋葉神社の灯火」が常夜灯であることが確認できました。
四編に共通しているのは「窪み」です。一般的には「盃状穴(はいじょうけつ)」と呼ばれ、神社や路傍の石造物にこのような円錐状の穴がよく見られます。
武津の皆さんはこれを“銘石”に仕立て上げ、立派な石碑まで建立しましたが…。