平成27年にアップした『旧神戸村を歩く』の一項〔再び、大マラ様 '25.11.11〕で、
と紹介しました。写真無しの、しかもオマケのような最後の三行でしたが、それに反応してくれた方から「場所を教えて」とメールが来ました。私以外にも興味を示してくれた人がいたことに嬉しくなりましたが、お礼のメールには「休石は、諏訪市内で5基目の確認です」と報告があり、諏訪でも休石が多くあることを知りました。
私が目にしたのは「休」としかありませんが、これを「休石(やすみいし)」としてネットで調べると、「休石温泉」や「中島みゆきの歌」ばかりが表示します。私を含む二人には貴石のような存在であっても、一般には誰も振り返らないものということでしょう。
休石は、文字通りの「休む石」とわかっています。しかし、私の説明では力不足なので、権威付きの字源を探すことにしました。再びネットに頼って「休石 道」で検索すると、…ほぼ同じ結果です。次ぎに「休石 街道」に替えてみると、「じゃーーん」…私が求めているものがトップに表示しました。その『溝延田井街道の休石』にある案内板の写真から、説明文の一部を転載しました。
河北町
河北町の設置ですから重みがあります。しかし、冒頭で紹介した「休」石は、腰を掛けたり荷を支える用途には向いていません。これは、存在価値を失ってから日が経ち、移転や破損などで現在の形状になったと想像できますから、取りあえず「休みたい人は休め」石と命名しました。
再びというか、改めて休石の前に立つと、砕石に覆われたスペースはJRの線路敷手前で通行止めになっていますが、かつては山際まで続いていた道であることに気が付きました。
自宅に戻り、これを江戸時代の『諏訪藩主手元絵図』で確認すると、神戸(ごうど)村の御蔵(郷蔵)脇を通り旧甲州街道に繋がる道でした。逆方向では、上川を渡って中洲村へ通じる道とわかりました。
国土交通省『国土画像情報』で調べると、昭和23年の写真に、踏切が写っているのを見つけました。
これで、この頃は人(馬)が渡れた道があったことになります。その後に踏切が廃止されたので、「空き地にポツンとある休石」に不思議を感じる景観になったという経緯を想像してみました。
中島みゆき作詞作曲『休石』は、著作権の関係があるので1フレーズのみを紹介しました。