『富士見町誌』から[若宮新田]の一部を転載しました。
伏屋長者の資料を探す中で、田中亀三郎/名取稜々著『伏屋長者史』(1954刊)を見つけました。目を通すと、労作であることに感嘆しますが、“自説”が多いので私が求める情報がありません。ここでは、細川玖琅さんがこの書に寄せた[伏屋長者研究の序]に「少年時代より聞き伝えられたままを記し、ご参考になりますれば誠に光栄です」とある一文のみを転載しました。
若宮の部落に生れた人は、少年時代より、若宮部落の北方八丁ばかりの所に在る御所島の池と、五輪様(年寄り連中が年何回か、五輸様の御念仏というて、念仏を申すことになつて居る)という、昔伏屋長者の居られた其の跡に、廟所として石の燈寵二基と、石の段のある所や、酒の泉の事などを、部落の人たちから伝え聞かされている。
(安政二年卯三月、今より百三年ばかり以前、私の曾祖父藤四郎翁など部落の人等と共に、伏屋霊神石細工請渡帳に記されたものには、燈籠二本代、八両二分、玄米七俵、石盤三両一分、石段(二十五段)二両二分、外に玄米三俵、拾四両一分、玄米拾俵にて石工政右エ門(に?)承知請渡したのである。)
偖、其の伏屋長といはるる長者は、昔どういう由緒のある人であったかは明かでない。
灯籠の銘「安政四年」と(安政二年…)から、御霊屋にある灯籠は部落の有志によって奉献されたことがわかります。しかし、これには「石枠」の記述がありません。そのため、石枠は、その銘「若宮村中」から、若宮新田村の事業として建立されたとすることができます。
ここで気になるのが、「御所島の池と、五輪様…」の件(くだり)です。富士見(若宮)の人は、『諏訪藩主手元絵図』(以下『手元絵図』)に書かれた「伏屋長者の屋敷跡」から、「廟所=屋敷跡・御所島池=半町四方の池」と理解している節があるように思えるからです。
『富士見町誌』〔灌漑用水と水害〕からの抜粋です。
『手元絵図』は享保18年 (1733) の編纂なので、今見る「御所島池」はまだ存在していません。そのため、『手元絵図』に書かれた「池」は「屋敷に付随した池」とする必要があります。
『伏屋長者史』から転載した、〔富士見村付近略図〕の一部です。地図と同じ方角(上が北)になるように回転させ、御所島池を囲む道に色を付けてみました。なお、本図には図中の記号(◯・□・他)についての説明はありません。
この〔略図〕は、「御所島池」を「御所島」・その北には「弁天島」を書いています。弁天島は他の文献には見られないので解釈のしようがありませんが、「池」を省略したとすれば「弁天島池」となり、それが『手元絵図』に書かれた「半町四方の池」に通じます。
〔富士見村付近略図〕を元に、伏屋長者に関連する地を歩いてみました。
まずは、石枠の中にあるこの石です。一年ぶりに観察すると、苔に覆われていますが、上部が階段状(三段)に刻まれていることに気が付きました。また、正面には◯が刻まれ、その中に何かの模様が確認できます。
しかし、縁も縁もない私では、「掃除・整備」を理由にしても(器物損壊の恐れがあるので)苔を払い除けることはできません。結局は、全体の印象から「これは、宝篋印塔の基壇ではないか」のみで終わりました。
ここから離れ、〔富士見村付近略図〕に図示された「五輪塔」を探しに石枠の上部一帯を歩き回りました。しかし、幾つかの切株を目にしただけで何も得られずに戻る羽目になりました。
御霊屋には境がありません。そのためか、それを避けたかような離れた場所に石祠が二棟安置してあります。
左方の祠には身舎の三方に寄進者が連名で彫られています。その一面に建立年がありますが、上部が欠けているので「◯応◯年四月佳◯◯建」までしか読めません。
その解読の中で、「細川三左エ門」があるのに気が付きました。『富士見町誌 上巻』に載る〔若宮新田〕の一部です。
石枠の右方にある石祠です。
「左方の石祠と共に、この墓所を両側から守っている」と思いましたが、すべてが左右対称になっていることから、それに合わせてこの場所に設置したと考えたほうが妥当かもしれません。
この祠の屋根には千木があります。諏訪では珍しいものですが、銘はありません。
『伏屋長者史』に「伝説として昔から正直者とか親孝行者がこの井戸の水を汲むと酒の味がしたと言い伝えられている」とある井戸ですが、道路が拡幅されたためか下りる石段がありません。
見当を付けて畑の畦に降り立ちますが、傾いた石祠があるだけで、井戸らしきものはありません。
「もしかして」とその背後に立ち、祭神が見詰めている方向をためると、祠の下から溝が続いているのがわかります。その先に僅かな水の流れが確認できたので、改めて正面から観察しました。
すると、基壇に見えた壊れたコンクリートの構造物が、かつての井戸枠にも見えます。ここで『伏屋長者史』を思い起こすと、「昭和二十八年十月田中亀三郎氏により修築される」と同一の写真でした。その後は整備されることもなく、今見る景観になったと理解しました。
「御所島池」と名が付いた溜池の堤防上にある石碑です。碑面の「舊跡御所島池」を読んで、「おっ、“舊跡”が」と色めいたのですが、その背後は用水路を挟んで林が広がっているだけです。「池が干上がったので舊跡か」と思ったのですが…。
気なしに裏に廻ると、こちらが表となる、長野県知事が揮毫した「改修碑」がありました。池畔では危ないので水路側に寄せて設置したと考えましたが、…普通の人は普通にこの背後を通ります。
その建立場所云々は置いて、裏とは言え、御所島池を「舊跡」と書いていることに疑問が…。これ(御所島池は、伏屋長者の旧跡)が、私以外の人の認識でしょうか。
〔富士見村付近略図〕にある「弁天島」ですが、確認しようにも水路に阻まれて渡れません。遠回りして笹藪をかき分けると、灯籠が一基だけあります。
その直近にある小屋は「舊跡御所島池」の散策用に設置したトイレと見ていましたが、扉の上に奉納額があることから、灯籠の対象になる建造物とわかりました。
格子戸にビニールシートが貼られていますが、折良く破れています。これ幸いと覗き込んだら、不動明王が安置してありました。
後方が御所島池なので、水神信仰で祭ったものと考えました。〔富士見村付近略図〕にある「□と∴」が相当しますが…。
仮称「不動堂」の前にそれと向き合った石祠がありますが、「明和二乙酉天(1765)」のみなので、その位置付けができません。
後方が凹地なので、かつて存在した何かを祀った祠と考えましたが、探してみても、一面の笹藪を踏み廻っただけとなりました。
この辺りの探索に区切りがついたので、灯籠の銘を読んでみました。ところが、棹四面に和歌のようなものが彫られていますが、判読できません。それでも複数の「長者・跡・弁財尊天」が読み取れるので、この灯籠は不動堂ではなく、伏屋長者の屋敷跡に関連したものとわかります。
改めて不動堂・石祠・灯籠の位置関係を眺めると、ササに埋もれた祠も関係なく、〔富士見村付近略図〕が書くところの弁天島に対して設置したと考えるのが合理的です。
写真の「万燈ハ(は)とても及ばず長者殿 御◯◯ふ◯ノ員の一燈」ですが、その“一燈”が、この一基だけの灯籠と推測できます。
その寄進者が、この辺りを伏屋長者の旧跡(弁天池・弁天島)として灯籠を設置したことが考えられます。しかし、刻まれた文字からはそれ以上のことは伝わってきません。
『伏屋長者史』の著者は、この灯籠を元に〔富士見村付近略図〕に「弁天島」を載せたのでしょうか。
『国土交通省 国土地理院』からダウンロードした、昭和23年3月撮影の航空写真です。
御所島池の東側一帯は畑地なので、不動堂が確認できます。また、灯籠はその前の道沿いに立っているのがわかりますが、何を対象にして建てられたのかは不明のままです。
少し広範囲に探索しての帰り、御所島池の脇から続く用水路が目の前に。目測で約1.2mと見て飛び越えたのですが、…着地で滑り横転してしまいました。しばらくは動けずにいましたが、何とか堪えて自宅に戻りました。
痛みはともかく、胸の「ゴリゴリ音」が気になります。楽観視していましたが、念のために夜間外来で受診すると、「親指の付け根と肋骨一本の骨折」との宣告が…。一瞬「伏屋長者の祟り」がよぎりましたが、やはり、歳不相応の行動とすべきでしょう。
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