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伏屋長者(御所島)探訪記 富士見町若宮

「伏屋長者」とは

 伏屋長者については、官牧・製鉄・宗良親王などに絡めた諸説があります。しかし、何れも推測に過ぎないので、史跡には指定されていないという現状があります。そのため、ここでは、(過去稿のものと一部重複しますが)「伏屋長者」についての史資料を挙げるだけとしました。

 長野県『長野県町村誌』(明治初期刊行)に載る『富士見村』から、〔古跡〕の一部を転載しました。

【伏屋長者跡】 東西五十間、南北四十間、本村の中位若宮新田耕地にあり。周堀庭園の櫻樹等今に存在す。尚溝渠(こうきょ)の形の存するを以てか、御所島と字に殘れり。叉櫻樹の在を以てか御殿抔(など)と世俗云傳へり。南二町許り距て伏屋長者の廟處あり、石五輪塔二箇並居す。墳墓苔莓(たいばい※コケ)玉磶(せき)を掩(おお)ひ、樹木白日を礙(さまたげて)往昔より干支を覺へず、世俗云傳ふ而已(のみ)。頃年(けいねん※近年)何人(なにびと)の由緒たるをしらず。

 ここでは、御所(島)と廟処を別けて書いています。

 富士見町『長野県 富士見町誌 上巻(以下『富士見町誌』)〔近世 村々の成立〕からの抜粋です。

若宮新田 若宮の村内北部に伏屋長者という地名があり、近世以前に伏屋氏なる長者が居を構えたと言われるが、その人物が如何なる者であったのか、確かな所は判明しない。『旧蹟年代記』には「古長者居住す、養水院、現今に長者と申す堤これ有り、墓所は五輪塔二つ、敷石、玉垣、石燈篭、雁木等あり、子孫これ無く…」などとあり、ここに古くからの屋敷跡があったことが知れる。
 また、この墓所へ毎年二羽の鶴が飛んで来たが、細川三左衛門(後述)が一羽を仕留めたら来なくなった(『旧蹟年代記』ではその後も一羽で来たという)というような言い伝えが、富士見の町域に広く伝わっているという。伏屋長者跡は五輪様とも呼ばれ、現在でも五輪塔の一部などが残っている。

 伏屋長者跡を墓所と書いています。

 (私の大好きな)『旧蹟年代記』が登場したので、確認してみました。

一、正保三年 若宮新田草分當山派天王山祇園寺蓮花院
 古長者居住ス、養水院(には)現今に長者申堤有之、墓所は九輪塔貳ツ・敷石・石の玉垣・石燈籠・雁木等有、子孫無之、年季年(?※年の終わり?)哉、鶴二羽ツゝ(?)來テ七日にて歸ル、渡世の者追欠壹羽打取、其後ハ壹羽ツゝ來ル、(後略)
諏訪教育会編『復刻 諏訪史料叢書 第三巻』

 「鶴二羽ツゝ」を、古長者や墓所の故事として書いているように思えますが、…繋がりません。

伏屋長者の屋敷跡「御所島」

諏訪郡富士見村若宮耕地 「御所島」がどこにあるのかと、県立歴史館蔵『諏訪郡富士見村若宮耕地』を調べてみました。左図は、その一部を地図に合わせて回転させたものです。
 この村絵図は明治7年の状況ですが、溜池「御所島池」の東北に字御所島を書いています。詳細な字境はわかりませんが、道路に囲われた中でも、用水路の右(東)側部分と考えました。因みに、−畑・−田・■−山林です。

「伏屋長者ノ屋敷跡」を地図で見る

 字「御所島」ですが、当然ながらこの地に島はありません。「あくまで島に見える」ということですから、そのような地形があるのかと、『地理院地図Vectoe』で色別標高図を作ってみました。

御所島 「0.5m毎に色の濃淡を付けたものに陰影起伏図を重ね、(ゴチャゴチャするので)道路と河川のみを表示させた」と説明を入れたのがこの地図です。因みに、左上の道が分水嶺に当たります(長野県↖ ↘山梨県)
 これを眺めると中央部の小丘が島に見えますから、それを「御所島」と呼んだことが推察できます。そうなると、その上部の凹地に伏屋長者の屋敷があり、その最深部に池があったと説明できます。

昭和23年の御所島

御所島 『国土交通省 国土地理院』からダウンロードした、昭和23年撮影の航空写真です。
 上図で「小丘」とした部分に沿って境界線が確認できるので、薄い赤でマーキングしてみました。それは、中央の旧家(※)の敷地とするのが妥当ですが、その広さと地名「御所島」から、伏屋長者の屋敷跡を継承する区画とも思ってしまいます。また、域内の直線も築地の跡とも見えます。

(※)当村の草分け七軒の一人で木之間村から来た細川素仙儀師の後裔。

 結局は、昭和20年代の景観に近世以前の伝承を当てはめるのは無理があります。それでも、一つの可能性として、ここに載せてみました。