伏屋長者については、官牧・製鉄・宗良親王などに絡めた諸説があります。しかし、何れも推測に過ぎないので、史跡には指定されていないという現状があります。そのため、ここでは、(過去稿のものと一部重複しますが)「伏屋長者」についての史資料を挙げるだけとしました。
長野県『長野県町村誌』(明治初期刊行)に載る『富士見村』から、〔古跡〕の一部を転載しました。
ここでは、御所(島)と廟処を別けて書いています。
富士見町『長野県 富士見町誌 上巻』(以下『富士見町誌』)〔近世 村々の成立〕からの抜粋です。
伏屋長者跡を墓所と書いています。
(私の大好きな)『旧蹟年代記』が登場したので、確認してみました。
「鶴二羽ツゝ」を、古長者や墓所の故事として書いているように思えますが、…繋がりません。
「御所島」がどこにあるのかと、県立歴史館蔵『諏訪郡富士見村若宮耕地』を調べてみました。左図は、その一部を地図に合わせて回転させたものです。
この村絵図は明治7年の状況ですが、溜池「御所島池」の東北に字御所島を書いています。詳細な字境はわかりませんが、道路に囲われた中でも、用水路の右(東)側部分と考えました。因みに、■−畑・■−田・■−山林です。
字「御所島」ですが、当然ながらこの地に島はありません。「あくまで島に見える」ということですから、そのような地形があるのかと、『地理院地図Vectoe』で色別標高図を作ってみました。
「0.5m毎に色の濃淡を付けたものに陰影起伏図を重ね、(ゴチャゴチャするので)道路と河川のみを表示させた」と説明を入れたのがこの地図です。因みに、左上の道が分水嶺に当たります(長野県↖
↘山梨県)。
これを眺めると中央部の小丘が島に見えますから、それを「御所島」と呼んだことが推察できます。そうなると、その上部の凹地に伏屋長者の屋敷があり、その最深部に池があったと説明できます。
『国土交通省 国土地理院』からダウンロードした、昭和23年撮影の航空写真です。
上図で「小丘」とした部分に沿って境界線が確認できるので、薄い赤でマーキングしてみました。それは、中央の旧家(※)の敷地とするのが妥当ですが、その広さと地名「御所島」から、伏屋長者の屋敷跡を継承する区画とも思ってしまいます。また、域内の直線も築地の跡とも見えます。
結局は、昭和20年代の景観に近世以前の伝承を当てはめるのは無理があります。それでも、一つの可能性として、ここに載せてみました。