『富士見町誌』から[若宮新田]の一部を転載しました。
具体的な年月が思い出せないので「以前」となりますが、この道を通った時に、石垣の上に灯籠と石碑が幾つかあるのを見ました。
地図でその場所を調べますが、神社の凡例が無いので、そのままとなっていました。
原村の住人なので、入笠山の山麓を走ることはめったにありません。今回(去年の話です)、瀬沢にある諏訪神社周辺を歩き回った帰りに、その場所を訪れてみました。
石垣の中央部を真っ二つに割るように造られた石段を上がると、まだ雪が残っている前方の緩斜面に、不思議な形をした石枠が二基並んでいます。
「不思議な形状」は写真で見て頂くとして、左方の石枠を覗き込むと、方形の石が中心部に置かれているだけです。
「ならば右は」と向かえば、…空っぽです。「何か手掛かりが」と銘を探せば、それぞれに「安政四丁巳(1857)星六月吉曜日若宮郷中」だけが確認できました。
改めて四方を見渡しますが、案内板の類はありません。そこで、入口の左右に立つ石碑まで戻り、早くに現れた石枠に目を奪われて無視していた文字を読むと、左「長者之舊跡」・右「伏屋之名所」でした。
「伏屋」から、この場所が、享保18年(1733) 編纂『諏訪藩主手元絵図』に載っていた「伏屋長者の屋敷跡」(◯)に関連したものであることに気が付きました。
その流れで灯籠の銘を確認すると「伏屋長者御霊屋」です。何かバラバラのような名称が不思議ですが、石枠二基が伏屋長者の墓所であることがわかりました。
再び石枠の前に立ちますが、石塔の類が存在しないのが不可解です。何かの理由で撤去されたことを考えてみましたが、何も浮かびません。元々「伏屋長者の名を知っているだけ」という現状なので、「その墓所を見つけた」のみで、この地を離れることになりました。
撮った写真で石枠の銘を確認してみたら、「吉曜日・吉日」の違いがあります。また、二基の灯籠には「安政四年龍在丁巳・夏六月朔日」が分けて彫られています。その中で「龍在」をネットで検索しますが、…反応がありません。「旧若宮新田村には墨客がいて、凝った銘を揮毫した」と想像してみましたが、単にネット上に挙がっていないだけで、意外と使われているのかもしれません。
前出の『諏訪藩主手元絵図』ですが、地図と方位が違うので、「伏屋長者屋敷跡」の場所がイメージできません。そこで、北が上になるように回転させてみました。
ところが、「伏屋長者の屋敷跡」と大平新田の集落との位置関係が整合しません。
そこで、昭和初期の道が載る古い五万分の一地形図を探すと、「明治四十三年測図昭和六年要部修正測図」とある大日本帝国陸地測量部『高遠』があります。
これに『手元絵図』の道を重ねますが、やはりしっくりしません。そこで「大平・松目・若宮」集落の位置関係とそれを結ぶ道を比較検討すると、ようやく、着色した道で一致しました。これが、江戸時代の絵図と地図の違いでした。
『富士見村誌』の折込地図『富士見村図』には、地元ならではの史跡が載っています。ここでは、上図(五万分の一地形図)の 部分に合わせたものを用意しました。
大縮尺ということで「御所島池」と∴伏屋長者跡があり、ネット地図を含めた現在の地図には載っていない[伏屋長者の御霊屋」が確認できました。
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